第9章 眩

第41話

 午前五時に目を覚まして、月夜は勉強を始めた。今日は定期テストだから、いつもより少し早く起きた。早く起きて、頭を回しておくと、本番のときに少しだけ余裕を持てる。別に、余裕なんてなくても良いけれど、ないよりはあった方がましだ、と月夜は考えている。それは、たぶん、どんなものにもいえることだ。友人だって、いないよりはいた方が良いし、趣味と呼べるものも、何かしらあると話題にできる。けれど、月夜は、唯一、自分に自信はなかった。どれだけ成功を重ねても、それが自信に繋がることはない。自信は、自分は優れている、と思い込むことで成立する。つまり、そうやって自分を騙せなければ、永遠と自信は持てなくなる。月夜は、まさにそういった状態だった。というよりも、自信というものは、どちらかというと、ない方が良いと考えている。これは、先ほどの考えと矛盾しているから、例外として扱われる。他人の前で自分の優秀さを見せつけるより、あえて馬鹿なふうを装っていた方が安全だ、と思われる。まさに、能ある鷹は爪を隠す。しかし、たとえ能があっても、鷹であっても、自分は、その爪を、獲物を捕らえるためには使わないだろう、と月夜は思った。


 日頃から勉強しているから、彼女の場合、テスト期間だから勉強しよう、というモチベーションの上げ方はしない。そもそも、自分にモチベーションというものがあるのか、月夜にはいまいち分からなかった。あるかもしれないし、ないかもしれない。はっきりいって、どっちでも良い。モチベーションがなくても、勉強は毎日続けられるし、モチベーションがあれば、当然勉強は毎日続けられる。どちらも結果は同じだ。やるか、やらないか。それだけで、すべてが決まる。


 朝食をとらずに電車に乗って、いつも通りの時間に学校に着いた。


 教室に入ると、いつも騒いでいる生徒が、今日も騒いでいる。テスト期間だから、騒ぐのは自粛しよう、といった、高尚な判断は成されないみたいだ。しかし、いつも通りの環境の方が、集中しやすいし、安心できるから、そんな光景を目にして、ああ、いいな、と月夜は自然にそう思った。


 彼女は自分の席に着く。


 そして、真昼の席に目がいった。


 彼はまだ来ていない。


 どうしてか分からなかったが、月夜には、彼がまだ来ていないことが、不思議と心配に感じられた。真昼が学校に遅刻して来るのは、珍しいことではない。けれど、彼が学校に時間通りに来るのも、珍しいことではない。どちらも五分五分といった感じか。だから、今の時間に彼が席に着いていなくても、特に不思議ではないのに、月夜は、なんだか、嫌な予感に襲われた。


 まあ、気のせいだろう。


 そう自分に言い聞かせて、鞄から小説を取り出す。


 勉強した内容は、もう充分頭に入っているから、これ以上参考書を確認する必要はない。試験が始まるまで、何度も同じことを繰り返している人がいるが、あれは時間とエネルギーの無駄だ、と月夜は思う。だからといって、そういう人たちを非難する気にはならない。きっと、自分以上にエネルギーを持っていて、生物として優れた個体なのだろう、と尊敬の念を抱く。月夜にはそれができないから、仕方なく、次の作業に移行して、総体的に得になることをしようとする。小説は文字情報だから、インプットとして、エネルギー的に効率が良い。効率が良い、というのは、そもそもエネルギーに関係しているから、エネルギー的に、効率が良い、という表現は、おかしいかな、と、小説を読みながら月夜は考えた。


 三十分くらいして、教師がホームルームにやって来る。


 そこで、月夜は、真昼が欠席であることを知った。


 風邪を引いたらしかった。


 どういうわけか、嫌な予感は、良い予感よりも当たる確率が高い。動物として、死を未然に回避する、という能力なのかもしれないが、原因は分からない。とにかく、真昼が休みだと知ったせいで、月夜は、少なくとも、テストに対するモチベーションが、少しだけ下がった。


 そう……。


 モチベーションなんて、なくても平気だ、とさっき考えたばかりなのに、もう矛盾したことを考えている。自分は、やはりその程度だ、と彼女は思う。だから、余計に自信が喪失される。もともとゼロだったものが、マイナスになった気分だった。


 そして、テストが始まった。


 数学だった。


 モチベーションが下がっても、問題が解けない、ということはない。その点では、彼女の考えは間違えではなかった。お腹が空いていなくても、甘いものなら食べられるのと同じだ。あるいは、身体が汚れていなくても、風呂に入れるのと同じ、かもしれない。


 何も困難な点は見受けられず、あっという間に五十分が過ぎる。このままいけば満点だが、しかし、それは、たぶんありえない。必ずどこかでミスをしている。テストは、たった今解いたばかりのものだから、いくら見直しを繰り返しても、直近に通った思考の筋道が頭に残っていて、無意識の内に、これで合っている、といったバイアスがかかるようになる。だから、ミスは、ミスとして認識されない。これを回避するには、ある程度の時間を置くしかない。けれど、試験の時間は決められているから、そんなことは不可能になる。これが、試験というシステムで、最も不合理な点だと月夜は認識している。


 次のテストが始まるまで、二十分ほど時間があった。本来なら、この時間を使って、次の試験の会場となる教室に移動しなくてはならない。


 けれど、月夜は、筆記用具を片付けると、鞄を背負って、昇降口へと向かった。


 彼女にしては、驚異的な判断だった。


 しかし、そのときの彼女には、それが合理的な判断だ、と処理されたのだ。


 月夜は、真昼の家に向かうことにした。


 当然、正門から堂々と学校を出れば、監視カメラに捕捉される。だから、月夜は、いつでも開いている裏口から敷地の外に出た。こんなふうに都合が良いと、不思議と、この裏口は、きっとこのときのために開いていたのだろう、と思えるようになる。


 一時間半ほど前に通った道を逆に歩いて、駅に着いた。さっきよりは空いている。定期券を改札の所定の位置にタッチして、ホームに移動すると、タイミングよく電車が入ってきた。


 それに乗るとき、月夜は何も躊躇わなかった。

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