第38話

 二十分ほど電車に乗り続けて、二人はホームに降り立った。そのとき、真昼になんの躊躇いもなく手を握られて、月夜はびっくりした。けれど、それが表情として顔に出ることはない。彼女の感情や感覚は、すべて一律で無表情で処理される。もちろん、その許容範囲を越えれば、感情が顔に出ることもある。それにしても、自分は、今までの人生で、心の底から笑ったことも、泣いたことも、怒ったこともないのではないか、と月夜は思った。そう思いたいだけかもしれない。いずれにせよ、彼女が感情を表に出すのに消極的なことに変わりはない。それでも、真昼に笑ってほしいと言われれば、躊躇せずに笑うことくらいはできた。


 改札を出ると都市が広がっていて、二人が住んでいる地域に比べれば、恒常的に活気があるように見える。日中でも街を人が歩いていて、自動車が走る音もあちこちから聞こえてきた。ただし、動物の鳴き声は聞こえない。人間も動物だが、そこに人間は含まれない。それは、どうしてだろう? 多くの場合、人間は、自分たちとほかの動物を区別したがる。そうしないと生きていけないのかもしれない。月夜は、あまり食事をしないが、それには、ほかの動物を食べなくてはならない、ということも関係していた。できるなら、彼女は動物の肉を食べたくない。そこに合理的な理由があるわけではないが、だからといって、ただの「嫌だ」という感情に起因して、そのように考えているわけでもない。そう、「考えている」のだから、少なくともそれは意識的だ。その点については、月夜はまだ自分のことを理解できていない、といえる。残された人生は、限りあるものだが、それまでに、少しずつでも、自分に関することが明らかになれば良いな、と彼女は考えていた。


 都市の裏通りに、小さな公園があった。


 真昼は、その中へ、迷わず足を踏み入れていく。


 月夜は黙って彼のあとをついていった。


 背の高いビルが周囲に建っているが、この公園は、そんな環境から孤立しているように感じられた。ブランコの塗装は剥げかけ、至る所から雑草が顔を出している。そして、何より、誰も遊んでいなかった。時間帯も関係しているかもしれないが、もし、普段から利用者がいるのなら、こんな閑散とした雰囲気にはならない。それに、地面から雑草が生えているということは、長い間、その地面が誰にも踏まれていない、ということを示している。


 真昼がベンチに座ったから、月夜も彼の隣に腰かけた。というよりも、手を繋いでいるから、そうするしかない。


 とても静かだ。


 音は聞こえるのに、静かだ、と感じる。


「少し、休憩しよう」真昼が言った。「慣れない旅だから、もしかすると、これから、もっとエネルギーを消費するかもしれない。君は、不必要にエネルギーを消費するのは嫌いだろう?」


 月夜は頷く。


「うん」


「お腹、空いた?」


「いや、空いてない」


「そう……。……風が心地いいね」


「風は、今は吹いていない」


 月夜に言われて、真昼は初めてそれに気がついた。彼は苦い表情をして、月夜の瞳を見つめる。


 いつも通り、そこには、彼女に特有な冷徹さがあった。


「うん、そうか……。僕は、今、ちょっと、頭が回っていないみたいだ」


「ちょっと、というのは、どれくらいのことを、言っているの?」


「君は回っているみたいだね」


「歩くのをやめても、地球は回っている」


「それは、生きている間に、できる限り活動した方がいい、ということ?」


「うーん……。活動しなくても、幸せは、掴めるかもしれない」


「やけに面白いことを言うね」


「そうかな」


「うん、そんな感じがするよ」


「ここに、私を連れてきたのは、どうして?」


 月夜はいきなり質問した。


 如何なる前兆も示さずに、突然質問することで、自分の本気度を伝えられる、と月夜は考えている。相手のことを気遣って前振りを設けるのも良いが、比較的親しい間柄では、それは却って逆効果になる可能性が高い。


「今、それを訊くんだね」案の定、真昼にそう言われた。


「タイミング、間違えた?」


「いや、僕も、君なら、そろそろ訊いてくるかな、と思っていたんだ」真昼は薄く笑う。「今まで訊かないでくれて、ありがとう」


 月夜は首を傾げてそれに応じる。


 真昼は、愛おしそうに彼女の顔を見つめた。


「僕が今から話すことを、信じなくても、いい、とだけ伝えておくよ」真昼は話す。「でも、君なら、きっと信じてくれるんだろうな……。……君は、疑う必要がなければ、疑わない。そして、僕は、君に疑われるような人間ではない、と自負している」


「うん。そうだよ」


「僕は、もう、あの学校には行かない」


 風が吹いて、ブランコがきいきいと音を立てた。


「どうして?」


「どうしてだと思う?」


 真昼に尋ねられたから、月夜は黙って考える。訊かれた質問には、きちんと考えてから答えなくてはならない。それが、月夜が掲げるポリシーだった。しかし、彼女は自分ではそのポリシーを認識していない。処世術みたいなもので、後天的に会得されたものだった。


「どこかに、引っ越す、ということ?」


 やがて、月夜は、導出された最も合理的な考えを口にする。


「うん、そう」真昼は頷いた。「その通り、正解だよ」


「本当に?」


「うん、本当」


「そっか」


「もしかして、予想していた?」


「予想は、していなかった」月夜は話す。「でも、それなら、また会えるんだね」


 月夜がそう言った瞬間、真昼は、身を乗り出して、彼女の手を握ったまま、月夜を抱きしめた。


 時間が停止する。


 呼吸と、拍動。


 その二つしか、この空間に存在していない。


「……何?」


「なんでもない。少し、いいかな?」


「……うん……」


 髪の香り。


 身体の温かみ。


 それらは、物質が存在することで生じる幻想だ。


 でも、二人とも、その幻想を、綺麗だ、と思った。


 綺麗だから、それで良い。


 それ以上である必要はない。


 ただただ、綺麗。


 何もかも、綺麗。


 綺麗、綺麗、綺麗。


 言葉を発さず、抱きしめるだけで良いから、無駄なエネルギーを消費しなくて、綺麗だった。

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