第8章 閃
第36話
午前六時に目を覚まして、月夜はいつも通り勉強した。学校を休むから、その分、家で勉強しなくてはならない。学校の授業と、家庭での個人的な勉強では、内容がまったくといって良いほど違うが、だからといって、方法まで異なるわけではない。勉強は、もうやり方が決まっている。人間が使う言語の論理体系を変えない限り、その方法が変わることはないだろう。
数学と、世界史を進めて、気がつくと、八時になっていた。
今日は、真昼との約束がある。彼に呼び出されて、学校を休むことになった。最初は、無断で欠席しても良いかな、と思っていたが、さすがにそれはまずいと思い直して、月夜は学校に電話を入れた。担任に繋がって、要件を伝えても、彼はまったく驚かなかった。月夜も、真昼も、教師や友人からあまり見られていない。もちろん、物質としては認識されているだろうが、月夜と真昼という個々の存在には、彼らはまったく目を向けようとしない。月夜にはそれが分かっていた。電話を切って、平日の朝なのに、私服に着替える。なぜだか分からないが、洋服を選ぶのに多少時間がかかった。真昼のことを意識しているせいかもしれない。別に、一方的に好意を寄せているわけではないし、もう、充分気に入られているのだから、今さらそんな気遣いをしても、と思う。それなのに、ちょっと気合いを入れて、「自分」という存在を加工しようとしていることに気づいて、月夜は、もう少しで笑ってしまいそうになった。でも、彼女は笑わない。どうしてなのか、自分でも分からなかったが、一人で笑うことに抵抗があった。
濃い色をしたジーンズと、少し大きめのシャツを着て、玄関を出る前にその上から黒いジャケットを羽織った。帽子を被っても良かったが、それでは、かなり怪しく見えてしまいそうだから、今日は控えておいた。
待ち合わせは十時だから、まだ一時間近くある。それでも、電車が遅れないとは限らないし、待っている時間に本を読んでいれば良い話だから、月夜は余裕を持って家を出た。駅で本を読んでも、家で本を読んでも、やっていることに変わりはない。彼女は、周囲の環境から多大な影響を受ける方ではないから、多少騒がしくても、いつもと同じように本の内容に集中できた。
真昼が言っていた駅というのは、二人が、毎日、学校に行く際に降りる駅のことではない。待ち合わせをする駅というのが、二人の間で予め定められていて、そこまで行くのに、学校の最寄り駅を通過する必要がある。平日だが、通学や通勤の時間帯とは多少ずれているから、車内は混んでいない。駅でも同じ学校の生徒に遭遇することはなかった。
いつもより少しだけ長い間電車に乗って、真昼と待ち合わせをしている駅に到着する。電車を降り、改札を抜けると、月夜は構内の隅で本を読み始めた。
月夜は、駅という場所が好きだった。彼女は、好き、嫌い、という判断を、真昼に思われているほどしない。それは、言葉の問題で、本当は、その二項だけで表せる感情ではない。しかし、どういうわけか、駅の構造に関しては、彼女を強く引き寄せるものがあった。
たとえば、月夜は、駅の地下構内を支える巨大な柱が好きだ。微妙な曲率というか、円形だから正面がなくても、ある一定の方向から眺めたときに、見えない部分があるのが良い。これは、このサイズの円柱でないと実感できない。真昼という人間も、少し会話をするだけでは普通に見えるが、もう少し深入りすると、まったく見えない部分があるから、そういった点では、彼に対する好意と似通っているかもしれない。
そんなことを考えながら、彼女は本を読む。
本に書かれている内容は、間違いなく彼女の頭に入っているが、それ以外の情報も同時に認識されている。本を読むのも、周囲の状況を把握するのも、どちらもインプットだから、処理として大きな差はない。違うのは、本の場合、ただ読むだけではなく、読むのと同時に個人的な思索を行っている、ということだ。これは、人の話を聞きながら、同時にその内容を吟味している、ということと似ている。人間の頭はそういうふうにできているらしい。だからといって、それが特別だとか、そういう話ではない。もっと良い処理の仕方があるかもしれないし、実際に、コンピューターは、人間とは違う方法で情報の処理を行っている。
真昼はなかなか現れない。
それもそのはずで、まだ、約束の時間まで三十分以上ある。
真昼は、多くの場合、時間にルーズだ。ルーズというのは、約束の時間を破るという意味ではなく、守るのも、破るのも、気にしない、ということを示す。そもそも、時間というものは、ある単位を基本として人間が定めたものだから、それに従わない、という選択をすることもできる。もしかすると、真昼には彼に固有な独立した単位が存在するのかもしれない。そう考えると、なんだかわくわくして、月夜の本を読む速度は速くなった。
時間が過ぎる。そもそも、過ぎない時間はない。
改札の向こうから真昼が現れた。
驚くことではないが、彼は制服を着ていた。
ほとんどの場合、真昼は制服を着て生活している。私服を持っていないわけではないらしいが、いまいち自信がない、とのことらしい。学校をずる休みしているのに、堂々と制服を着てくる神経が、月夜には理解できない。けれど、理解できなくても面白いとは感じたから、彼の服装について彼女は特に指摘しなかった。
「やあ、待った?」近くまで来て、真昼が言った。
「待った」
「え、本当に? どれくらい?」
「たぶん、二十分くらい」
「それは、君が早く来すぎなんじゃないかな」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、僕のせいじゃないね。よかったよ」
「よかった」
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