第35話

 携帯電話を上着のポケットに仕舞って、月夜はぼんやりと前方を見る。何も映していないテレビが鎮座していた。電源を入れれば、テレビは自動的に彼女を幻想の世界へと連れていってくれる。それがどんなに簡単でも、それは、やはり、幻想でしかない。だから彼女はテレビの電源を入れなかった。現実には、今、真昼との会話を終えて、閑散としているこの空間しか存在しない。月夜は孤独を感じていた。しかし、そんなものも、もしかすると無駄なものかもしれない。どちらでも良かった。彼と話をしたことで、多少は、現実で生きていく活力を取り戻せた、ような気がしないでもない。それも、また、どちらでも良かった。現実がどうであれ、彼女は、今後も、今までと同じように、生き続けなくてはならない。そう考えると少し苦しかったが、苦しいのは生きているからだ、と思うことにして、勢いをつけてソファから立ち上がった。


 視点が高くなる。


 そう……。


 どんなことも、視点を変えて見てみれば、それなりに面白く感じられる。現実も、幻想も、どちらも合わせて「現実」だから、角度を変えて観察をすれば、どちらも彼女にとって有益なものになる。それが、月夜には嬉しく感じられた。真昼という存在は、彼女が錯覚している幻想かもしれないし、本当に存在しているかもしれない。しかし、それでも、彼女が、自分で、彼、という存在と対話できることに変わりはない。それなら、それで良い。それ以上を望んでも仕方がない。そして、仕方がないことは、文字通り、仕方が、ない。だから、何もできないし、何もする必要はない。


 月夜は、リビングで一人立ったまま、もう少し思考を続けた。


 それでは、真昼にとって、自分はどのように認識されているのだろう、と彼女は考える。自分は主体だから、それについて考えるには、客観的に自分と真昼の関係を見つめ直さなくてはならない。このとき、自分は自分でありながら、同時に「世界」でもあることに気がつく。すなわち、自分が真昼を観察している、という状況は、「世界」が自分を観察している、という状況と等しい。この関係性を数字で表すと、そこに黄金数が出現する。それは、以前真昼が言っていたことで、月夜はその関係性を知っていた。黄金数は、人間に「綺麗」という感情を引き起こさせる。つまり、自分が他者を観察することは、論理的にも「綺麗」な行為なのだ。そして、一時的に自分を切り捨てて、客観的に自分と相手との関係を見つめようとすることも、行為として「綺麗」であることになる。


 それでは、そんな「綺麗」な行為をする自分は、そもそも「綺麗」なのか?


 それは、分からない。


 行為は「綺麗」だが、その行為を実践する者が、必ずしも「綺麗」であるとはいえない。


 そういうことになる。


 月夜は真昼を愛している。


 愛を向ける、という行為は「綺麗」だが、その行為を実践する自分は、本当に「綺麗」なのか?


 ……。


 シャッターの隙間から、室内に風が吹き込んでくる。


 真昼は、明日、何をするつもりだろう?


 候補はいくつもある。


 その量は、月夜が、今まで彼と行動をともにした量と比例する。


 つまり、データ。


 しかし、そのどの候補も不適当とする結論が、月夜の思考回路の中から導出された。


 それは、エラー。


 エラーは、恋だ。


 では、恋はエラーか?


 気を失うようにソファに倒れ込んで、月夜はそのまま眠ってしまった。

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