第7章 炎

第31話

 月夜は、その日、家に帰った。


 普段なら学校に残る彼女が、家に帰ろう、と思ったのは、学校に残る必要がなかったからだ。彼女は、基本的に、必要のないことはしない。必要があるというのは、やらなくてはならない、ということだから、それを決めるのは自分であるわけで、したがって、彼女が「やらなくて良い」と決めた瞬間に、それは必要ではなくなる。けれど、自分という存在は、決して必要のないものにはならない。自分で「存在しなくて良い」と決めても、それで解決する話ではなく、自分と関わりのある人間や、組織が、必ず自分の必要性を見出してくる。自分とは、そういう存在だ。それだけで完結しているわけではない。人は、一人では生きられない、と言われることがあるが、そういう言い方よりも、人は二人以上で人である、といった方が正しいだろうな、と月夜はぼんやりと考えた。


 彼女は、自宅のベランダに座っている。二階ではない。一階のリビングを抜けた先にあるスペースで、正しくは、それは、ベランダ、とは呼ばないかもしれなかった。むしろ、ウッドデッキと呼んだ方が近い。これは、この家にもともと設置されていたもので、彼女が自分で制作したものではなかった。それでも、月夜はこの空間をとても気に入っている。どれくらい気に入っているかというと、彼女が最も親しい知り合いである、真昼、という少年と同じくらい、気に入っている。しかしながら、これを言ってしまうと、本人に察知された際に面倒なことになるかもしれない、と思って、月夜は、たった今自分が考えたことを、丁寧な思考の檻で完全に封印してしまった。一度考えてしまったことは、百パーセント削除することはできないが、考えなかったことにする、ということはできる。そうやって、いくつも偽物を作り上げていくことで、終いには、自分でも、何が本当なのか分からなくなって、取り返しのつかないことになる。もしかすると、自分は、取り返しがつかなくなることを望んでいるのかもしれない、と月夜は思った。それは、自分に最も相応しい、とも思う。取り返しがつかない、といったくらいのスリルがないと、きっと、人生はやっていけない。人生は、きっとこれからも続いていく。それなら、それくらいのスリルがあった方が、死ぬときにそれなりに納得できるというものだろう。


 手に持っていたカップを持ち上げて、ホットコーヒーを体内に取り入れる。おそらく、今吸収した水分の大半は、明日になれば自分の身体の中にはない。そう思うと、飲食という行為が、如何に無駄であるか分かる気がする。もちろん、それらの行為をしなければ、生き物は生きていけないのだから、完全には無駄ではない。そうではなく、無駄が多い、という意味だ。月夜は、どちらかというと、無駄なことを嫌う傾向がある。無駄は、無駄だ、と認識した瞬間に無駄になる。その無駄が存在することを認識して、認めなければ、これまた、人は生きていくことができない。生きる、という行為自体が地球にとっては無駄だから、自分は、無駄な生き物なんだ、と思ってしまうこともある。一度そう思ってしまえば、もう、生きていくのが大変で仕方がない。だから、月夜は、その思考を、なるべく行わないように心がけていた。


 ポケットに入れていた携帯電話が震えて、着信を知らせる。月夜はそれを取り出し、ボタンを押して耳に当てた。


「もしもし」


 相手は答えない。


 これで、相手が誰だか分かる。


「真昼?」月夜は、電話の向こうにいるだろう相手に尋ねる。


〈やあ、月夜〉少年の高い声が返ってきた。〈こんばんは。こんなに夜遅くにかけてしまって、ごめんね〉


「いつも、夜に会っているから、電話での会話が、それと同じだ、と思えば、プラスマイナスゼロになって、無駄がない、と思うよ」


〈うん、そうだね〉


「何か、用事?」


〈君と、話す、という用事だよ〉


「私と? 何を、話したいの?」


〈うん、正直に言うとね、君の声が聞きたかったんだ〉真昼は言った。〈そういうことって、ときどきあるだろう? 一度経験したことがあるのに、それを、もう一度経験したい、と思うんだ。これで最後、と思いながらも、結局また次も同じことを求めてしまって、永遠にその繰り返しになる。そして、他人からそれを指摘されて、やっと、少しは、自分にけじめがつくようになるんだ〉


「私も、君の声は、定期的に聞きたい、と思うよ」


〈本当に? いやあ、それは嬉しいなあ〉


「よかった」


〈え、何が?〉


「君が、嬉しそうで」


〈うん〉


「うん」


〈いやいや、同じことを言わないでよ〉携帯のスピーカーを通して、真昼が笑う気配が伝達される。こちら側に来るのが、電子の流れであっても、彼がすぐ近くにいる、と錯覚することは可能だ。人生は、錯覚を応用することで豊かになる。ストーリーというものも、現実だと思い込むことで、心の底から楽しめるようになる。


「ごめんね」


〈君は、今、何をしているところ?〉


「何、の範囲について教えて」


〈君が今行っている、定常的ではなく、今現在に特徴的な、記述する価値のある行為について教えよ、と言っているんだよ〉


「コーヒーを飲んで、風に当たっている」


〈どこで? いや、コーヒー? 君がそんなものを飲むなんて、珍しいね〉


「場所は、家の、ウッドデッキ。コーヒーが、家にあったから、それを飲んだ」


 真昼は再び笑った。

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