第30話

 勉強が終わってしまえば、今日のメインイベントを達成したことになる。だから、月夜は、帰ろうかな、と思った。さっき、真昼と一緒にいれば楽しい、と言ったばかりなのに、その考えは明らかに矛盾している。彼女は、どちらかというと合理的な思考をする方だ。それは、真昼と比べるとそう、というだけかもしれないが、この空間には、月夜と真昼の二人しかいないから、それだけで良い。反対に、真昼は全然合理的な思考をしない。感情に従って動く男で、一般的なカップル像とは、二人の関係性は真反対だった(一般的とはどういう意味か、という質問は受けつけない)。


「もう、帰ってもいい?」合理的な思考をして、そうした方が良いだろう、という結論に至ったから、月夜はその通りに言葉を伝えた。


「え、どうして?」真昼が首を傾ける。


「もう、勉強が、終わったから」


「まあ、いいけど。何か、予定とか、あるの?」


「今日中に達成しなくてはいけない予定は、ない」


「じゃあ、もう少し、僕の家にいてよ。もしかして、遠慮しているの?」


「遠慮は、してないよ」


「じゃあ、どうして、帰る、なんて言うの?」面白そうな答えが返ってきそうな気がしたから、真昼は尋ねた。


「家に帰って、一人の時間を過ごした方が、利益が大きくなる、と判断したから」


「それ、言うと思ったよ」


「予想?」


「いや、推測、かな」


「経験則、ということ?」


「そうだよ。君は、そういうこと、けっこうな確率で言うから、ある程度は分かるんだ」


「けっこうな確率というのは、どれくらい?」


「少なく見積もっても、六割くらい、かな」


「なるほど」


「愛ってさ、自分を殺して、相手に尽くす行いだ、と僕は思うんだけど、どうやら、君の愛の定義とは、少し違っているみたいだね」


「尽くすだけでは、成立しない、と思うだけだよ」


「まあ、そうだね。どちらかというと、君は尽くすばかりで、僕だけが莫大な利益を得ているから、君にとっては、辛いのかもしれない」


「辛い、とは思わないから、平気」


「そう? なら、今日も、僕に尽くしてよ」


「分かった。何をする?」


「うーん、そうだな……。ああ、いや、別にさ、具体的に、これをしたい、というのはないんだ。ただ、一緒にいて、話しをしたり、笑ってくれたりしたら、それでいいんだよ」


「うん」


「それは、何に対する肯定?」


「話したり、笑ったりするよ、という意味の、肯定」


「そうなの? じゃあ、ちょっと、久し振りに、笑ってよ」


 真昼の注文を受けて、月夜は、何の躊躇いもなく、極めて自然な動作で笑った。


 真昼は、彼女の顔を見て、呆気に囚われる。


 こんなにも簡単に笑ってくれるなんて、彼は思ってもいなかった。


 そう……。


 女性が、男性に、こんなに簡単に笑顔を差し出して良いものか、と真昼は思う。


 しかし、その考えは、差別だと言われそうな気がしたから、彼は何も考えなかったことにした。


「じゃあ、何を話そうかな……」月夜の笑顔を見て動揺してしまった真昼は、腕を組んで、天井に視線を向ける。


「私は、なんでもいいよ」


「それを言われると、ますます困るんだよ。なんでもいいといっても、ある程度は、相手が期待している内容があるわけで、それを的確に選択できるか、と思うと、プレッシャーがかかってしまうから」


「本当に、なんでもいい」


「そう?」


「うん、そう」


「じゃあ、君は、将来は、何になりたいの?」


「何、というのは、何?」


「え、だからさ」真昼は笑った。「この場合、職業、でいいのかな」


「職業なら、専業主婦、だよ」


「専業主婦? それって……。……えっと、誰のもとで、専業主婦になるの?」


 真昼が尋ねると、月夜は、珍しく、彼から顔を背けて、頬を赤らめた。


「秘密」


 その言葉は、真昼には、秘密だ、とは聞こえなかった。

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