第29話
十分ほどして、真昼はオムライスを食べ終わった。
「ごちそうさま」
月夜は、皿を下げて、それを洗った。
いよいよ、勉強を始める準備が整った。
月夜は、何も持ってきていなかったから、彼のテキストを使って、勉強を教えることになった。といっても、彼女が言ったように、勉強は手順や方法が限られているため、普段使っていない教材を使っても、特に苦労することはない。
範囲は微積分だった。微分は、曲線を直線にする作業だから、月夜は好きだ。基本的に、曲線を計算の対象とする場合、多くの労力を必要とするが、直線にすることで作業は簡単になる。それは、つまり、余計なエネルギーを使う必要がない、ということでもある。一方で、積分はその反対の作業をしなくてはならないから、月夜はあまり好きではなかった。問題を解く中で、まず、積分しなさい、という指示を見ただけで、気力の五十パーセントが失われる。そして、実際にペンを持って計算をし終えたときには、もう、気力はまったく残されていない。これは明らかに誇張だが、それでも、できるなら、微分だけやって、積分はしたくない、というのが月夜の正直な思いだった。
真昼は、自分で言っていたほど、勉強ができないわけではないらしい。やり方を教える中で、月夜にはそれがなんとなく分かった。彼の場合、むしろ、毎日続ける、といった努力が足りていないように感じる。努力をするには、まず、努力をするための努力が必要になるから、それができないことには、次の段階には進めない。したがって、まずは努力を継続する方法を探す必要がある。しかし、それは月夜には解決できない問題だから、彼女は、今回はそこには触れなかった。
二時間ほどペンを握り続けて、気がつくと、午後になっていた。
真昼はテーブルに突っ伏して、目を閉じた。
「いやあ、助かったよ、どうもありがとう」彼が言った。「これで、もう、勉強しなくてもいいかな」
「よくないと思うよ」対面に座る月夜が話す。
「いや、でもさ、こんなことを毎日続けていたら、本当に、まともに生きていけない、と思うんだ」
「そういう人は、仕方がないかもしれない」
「そうだよね」
「うん……。でも、成績が悪いと、進級できないかもしれないよ」
「それなら、それでいいな、と思ってしまうんだ」
「どうして?」
「そういう人ってレアだからさ、レアなものは、価値があるんだよ」
「それは、いい価値なの? それとも、悪い価値?」
「価値はすべていいよ」
「そうかな」
「そうだよ。そもそも、いいものを、価値、と呼ぶんだ」
「それなら、君のそれは、価値、ではないんじゃないの?」
「そうかなあ……。いやあ、そんなふうには思いたくないなあ……」
「個人が、どう思っても、事実は、変わらない」
「冷たいね、月夜」
「ごめんね」
月夜は本心からでしか謝らない。だから、今顔を上げれば、彼女の申し訳なさそうな顔が見れるな、と思って、真昼は前を向いた。案の定、月夜の表情は曇っていた。
「数学って、難しいよ。もう、やりたくない、というのが、正直な感想だね」真昼は言った。
「難しい、というのは、エネルギーを多く消費する、という意味?」
「そうそう、そんな感じ」真昼は話す。「国語みたいに、文章を読んでいればいいだけじゃないから、頭を使うし、疲労も重なって、意気消沈してしまう」
「疲れたら、休んでいいよ」
「今、休んでいるよ」
「そっか」
「でも、数って、不思議だよね」
「不思議、というのは、一般的ではない、ということ?」
「うん、まあ、ちょっと違うけど……」真昼は話す。「たとえば、言葉って、すべて、実際にあるものを、代替するものだろう? ある、というのは、物質としてある、という意味だけじゃなくて、概念的に取り扱えるものも含んでいる。で、数にも、そういう性質があると思うんだ。表現する方法の一つ、というか。……そうそう、前に読んだ本にさ、数を使って、人間の愛を表せる、ということが書かれていたんだけど、どんな数になると思う?」
「分からない」月夜は首を振る。
「それがね、黄金数になるらしいんだ」
月夜は、黄金数に関するデータを脳内キャビネットから取り出す。たしか、長方形が最も綺麗に見えるときの、縦の長さを一とした場合の、横の長さの比のことだった、と彼女は思い出す。具体的な数字は覚えていなかった。忘れたのではない。もともとインプットしていないのだ。
「それが、どうかしたの?」月夜は、真昼の顔を見て、尋ねる。
「いや、別に、どうもしないけど……。面白いな、と思って」
「うん、面白い」
「綺麗も、beautifulも、黄金数も、すべて同じものを表わしている。言い方が違うだけで、示している対象は、ほとんど同じ、ということ。だからこそ、そんなに沢山の言葉があって、不思議だなあ、と思うんだ」
「私は、不思議だなあ、とは思わなかったけど」
「じゃあ、どう思ったの?」
「何も、思わなかった」
「それは、面白い、の内に入るの?」
「入る、と思いたい、のかもしれない」
「それは、なんでもそうだよ」
「その言葉は、面白いよ」
「そう?」
「うん」
「それは、よく分からないけど……」
「そうかな」月夜は言った。「でも、その言葉も、面白いよ」
真昼には理解不能だったので、彼は一時的に彼女との会話を中断した。
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