第4章 灯

第16話

 その日、珍しく、月夜は学校をあとにした。


 といっても、下校時刻はとっくに過ぎている。今は夜の十時で、本来なら、生徒が学校に残っているのはおかしい。けれど、月夜という少女に限っては、それはおかしなことではなく、もはや彼女にとっては当たり前だった。夜の学校は、暗くて、静かで、楽しい。何が自分を楽しく感じさせるのか、それは彼女にも分からなかったが、理由が分からなくても、楽しければそれで良い、というのが彼女の考え方だった。


 そうはいっても、楽しくても、やってはいけないこともある。それは、たとえば、殺人とか、窃盗とか、テロとか、そういったいわゆる犯罪の類だ。それらのことをすれば、自分は楽しくても、他人に迷惑がかかることになる。迷惑は、自分が被ったら嫌だから、人にもかけるべきではない。つまり、ルールを守る、ということだ。しかし、それを言ってしまえば、彼女は、すでに、校則というルールを破っている。けれど、まあ、別に、他人に迷惑をかけているわけではないから、ぎりぎり大丈夫だろう、くらいに月夜は考えていた。厳密には、まったく迷惑をかけていない、とはいえない。彼女の行為がばれれば、誰かに迷惑がかかるリスクがある。そのリスクを背負って、彼女は、こうして、夜の学校を闊歩している。いつばれてもおかしくはないから、いつでも、もしもの場合に備えて身構えていなければならない。それは辛いことだったが、同時に、スリリングでもあり、また楽しくもあった。


 そして、今日は、彼女は学校には残らなかった。学校ではなく、近所の公園に移動して、そこで逢瀬を迎えることにした、というわけだ。逢瀬というからには、もちろん相手がいる。そして、逢瀬といっても、全然大したものではなく、ただ人と会って話す、という程度でしかない。艷やかな行為や、陰気な所業は、彼女にはまったく必要ない。そんなことをしても、束の間の満足で終わってしまうだけだし、それなら、これからも続くであろう関係に備えて、もう一段階レベルの高い行いをしよう、と考えるのが、彼女の人間性というものだ。だから、今日も、月夜は何の警戒もしないで、公園のベンチに座って、逢瀬の相手が来るのを待っていた。


 そして、その相手がやって来た。


 彼は、真昼という人間だ。人間だ、というのは、文字通り、彼が、生き物の中の、動物の中の、人間という種だ、ということを意味している。それ以上でもそれ以下でもない、といったありきたりな表現を使うのも良いが、しかし、そうはいっても、ほかに適した表現は見つからないので、この表現に関しても、それ以上でもそれ以下でもない。一方、月夜はというと、彼女もまた人間だから、それ以上でもそれ以下でもない、と表現できそうだった。


 真昼という少年は、今日はコートを羽織っていた。たしかに、気温はかなり低い。しかし、月夜はいつも通りブレザーを着ているだけだった。下はスカートだから、脚が冷気に晒される。けれど、寒さを感じるのも、言ってみれば自分が生きているからだから、本当なら、この状況に感謝しないといけない、と月夜は思った。そして、自分は、そんな状況にいつも感謝している、ということにも彼女は気がつく。真昼がどう考えているか、それは月夜には分からなかった。


「寒いね」挨拶を省略して、真昼が月夜の隣に腰かけた。「実はね、このコートは、君のために、わざわざ持ってきたんだ。だから、ほら、着ていいよ。きっと、暖かいと思うから」


 そう言って、真昼は自分が身につけていたコートを脱ぎ、それを月夜の肩にかける。


「今の内容は、たぶん、嘘」月夜は冷たい声で呟いた。しかし、その声は彼女のデフォルトだから、別に負の感情が込められているわけではない。彼女の行いは、いつも、決まって、冷徹、冷酷、冷涼、だが、だからといって、彼女が冷たい人間であるとか、そういうわけではなかった。


「うん、そうだよ」真昼は肯定する。


「嘘でも、嬉しいから、嬉しい」


「嬉しい、を、二回繰り返す理由は?」


「どのくらい嬉しいか、表現したつもりだった」


「なるほど。それはいいね。僕もさ、たまに、お腹が空いていると、おかわり、おかわりって、二回言ってしまうことがあるんだ。まあ、そうは言っても、おかわりは一回まで、というルールがあるから、二倍の量のご飯が食べられる、というわけではないんだけど」


「今は、お腹は空いてるの?」


「え? ああ、うん、まあね。いつもに比べたら、だけど」


 月夜は鞄の中を漁り、そこからサンドウィッチを取り出した。水色のプラスチック製のケースに入っていて、如何にもな感じで、三角形をしている。具はハムとレタスとマヨネーズだった。マヨネーズは具の内に入るのかな、と彼女は一瞬だけ考えたが、どうでも良いことだと思って、すぐにその思考を中断した。


「これを、食べるといいよ」


「何が、いいの?」そう言いながら、真昼はサンドウィッチを受け取る。「うわあ、凄いなあ。もしかして、これ、君の手作り?」


「うん、そう」


「美味しそうだね」


「美味しいよ」


 真昼は月夜の顔を見つめる。


「自信があるの?」


「自信は、いつも、ない」


「それにしても、君が料理をするなんて、珍しいこともあるものだね」


「そうかな」


「うん……。だって、君さ、いつもご飯を食べないじゃないか」

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