第15話

 月夜は黙って考える。


「自分がしたいことよりも、他人がどう思うか、ということを、優先して考えてしまうからかもしれない」


「それは、教師に叱られるのが怖い、ということ?」


「叱られるのは、怖くない。自分を叱る教師が、どんな気持ちになるか、と考えると、申し訳なくて、規則を破るようなことは、できない、と思ってしまう」


「たとえ、それが、自分が本当にやりたいことでも?」


「うん……」


「じゃあ、僕が、本気でそうする、と言ったら、君はそれに付き合ってくれる?」


 月夜は、顔を上げて、真昼を見る。彼は薄く笑って、試すような目で彼女を見ていた。試すようなといっても、下賤な感じはまったくない。あくまで、遊びの延長のような、そんな態度で、彼女に質問しているのだ。


「今の私では、答えられない」


 やがて、月夜は簡潔に答えた。


 それから、謝った。


「ごめんね」


 真昼は、テーブルについていた肘を下して、椅子から立ち上がる。


「いいよ」彼は言った。「僕の方こそ、変なことを訊いて悪かった」


「変なことでは、なかったと思う」


「そう?」


「たぶん」


「たぶん、というのはどれくらい?」


「それは、私の台詞?」


「今は、僕が話している」


「そうだけど、そうではない」


 予鈴が鳴る。あと五分で午後の授業が始まる、という合図だ。


 二人は揃って図書室を出る。すでに食堂の照明は消えていて、係の人間が、皿を洗う音だけが、遠くの方から微かに聞こえてきた。


 階段を上って、教室に向かう。廊下はまだ騒がしい。教師がすでに準備を始めている教室と、まだ来ていない教室があって、自分たちと同じように、大人にも、それぞれ用事があるのだな、と月夜は思った。


 そんなことを思うのは、彼女にしては珍しい。昼食のときにも珍しいことが起こったから、これで二回目だ。自分は、自分でなくなろうとしているのかもしれない、と歩きながら考えてみたが、そうともいえるし、そうともいえない気がして、その思考がそれ以上の何かに発展することはなかった。


 教室に到着すると、まだ教師は来ていなかった。


 月夜と、真昼は、別々に自分の席に着いて、授業の支度をする。教科書を取り出して、ノートを開いた。


 この世界には、彼らの知らないことが沢山存在する。しかし、そのほとんどは、人間が解明した真実のほんの一部分にすぎず、「知らないこと」の大半は、まだ、本当に、誰も知らない。自分の世界は、自分で規定することができるが、他者とともに生活する、この、いわゆる「世界」というものは、自分で規定することができない。だから、必然的に、未知、というものが存在することになる。


 月夜にとって、真昼は未知そのものだった。まだ、彼に関して、知らないことが沢山ある。だから、少しずつでも良いから、彼をもっと知られたら良いのに、と思う。そう思っても何も変わらないが、何かを変えるきっかけにはなるかもしれない。理想とは、そういうものだ。叶えられなくても、理想を掲げて、生きていくしかない。


 しかし、それは、生きていく、ということを前提とする者にしかいえない。そうすることで、生きる本当の意味や、目的を棚上げにして、快適に生活できる環境を作り出していく。


 自分は、本当に生きたいのか、と月夜は疑った。


 教室の扉が開く。


 きっと、これから始まる授業でも、その問いに対する答えは、教えてもらえない。

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