第9話

 背後に誰かの気配を感じる。彼の隣に月夜がやって来た。


「お待たせ」彼女が言った。「お先に、入らせてもらいました」


「うん」


 沈黙。


「何をしているの?」


「何も」真昼は首を振る。「強いて言うなら、黄昏れている」


「今は黄昏時じゃないから、ちょっと違うと思う」


「いや、そういう意味じゃないんだ」


「うん、知ってる」


「あそう」


「君は、今日は、帰らないの?」


「そのつもりだけど……。やっぱり、泊まるのは、無理があるかな?」


「無理は、物質じゃないから、ある、という表現は使えない」


「じゃあ、なんて言ったらいいの?」


「無理」


「それじゃあ、なんだか堅いじゃないか。拒否しているみたいで、聞いている方はあまり気持ちが良くないだろう」


「無理は、そもそも拒否する言葉だから、気持ちが良くなくてもおかしくはない」


「うん、そうだね。しかし、言葉を匠に使って、そんなふうに聞こえないようにする技術が、今後は、求められると思うよ」


「誰から求められるの?」


「社会から」


「社会とは?」


「人間の集合のこと」


「集合? でも、人間以外の社会もあるかもしれない」


「それ、どういうこと?」


「なんとなく、そう思ったから、そう言った」


「素直だね」


「お風呂、入ったら?」


「うん、じゃあ、入るよ」真昼はリビングに向かう。「もう遅いから、君は眠るといい」


「分かった」


 キッチンの前を通って、真昼は脱衣所に向かう。照明が点いたままになっていて、洗面台が僅かに濡れていた。反対に、まったく濡れていない洗面台というものを、彼は見たことがない。


 どうしてそんなことを考えるのだろう?


 まあ、いいか……。


 浴槽に繋がる扉を開けると、リンスの甘い香りがした。


 早く入って眠ろう、と彼は思った。





 目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が差し込んで、自然と欠伸が誘発された。室内は薄暗い。ベッドの向こう側にクローゼットがあって、室内に入ってきた陽光が、そこに奇怪な影を作っていた。


 横を向くと、隣で月夜がすうすうと寝息を立てている。真昼は彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、自分の着替えを持って、階段を下りてリビングに向かった。当然ながら、睡眠時間は充分とはいえない。帰ってきたのが零時半頃で、そこから風呂に入ったから、五時間くらいしか眠っていない。どちらかというと、彼は朝に弱い方だ。夜になるにつれて頭が回るようになるから、いっそのこと昼夜逆転生活をしようかな、と常々考えているくらいだった。


 一夜をともにしても、二人は、今までスペシャルな関係に陥ったことがない。そもそも、もとの関係がスペシャルすぎるから、これ以上スペシャルになる必要がなかった。そういった種類の願望は、自分が生きたくて、今後も生きるパワーを継続したい、と思う者にしか湧かない。真昼は生に執着していないし、それは月夜も同じだから、一つ屋根の下で暮らそうと、一つのベッドで眠ろうと、二人の間に特別なアクションが起こることはなかった。


 真昼はリビングに入り、シャッターを開けて室内を明るくする。そのまま洗面所に移動し、パジャマから制服へと着替えた。続けて歯磨きをする。月夜は朝ご飯を食べないので、ここに来たときは、彼もそれに合わせている。洗面台に置かれた時計を見ると、ちょうど午前七時を回ったところだった。遅くても、あと三十分後には家を出ないと間に合わない。別に間に合う必要はないが、間に合って損はない、という程度には間に合った方が良い。


 歯を磨き終えて、彼が再びリビングに戻ろうとすると、すでに制服に着替えた月夜が、ゆっくりと階段を降りてきた。


「やあ、おはよう」真昼は声をかける。「よく眠れた?」


「よく、の基準は?」


「朝から冴えてるね」


「うん、そうかな」


「お腹は空いてないの?」


「空いてない」彼女は言った。「きっと、今から乗る電車も空いてない」


 特にすることがないので、二人揃って早めに家を出た。昨夜とは打って変わって町は活動的で、小学生の笑い声や、犬の鳴き声が、至る所から聞こえてくる。活気、という言葉があるが、あれはこういった状態を表わすのだろうな、と真昼は思った。


 昨晩歩いてきた道を逸れて、二人は駅へと向かう。活気があるといっても、この地域は比較的閑散としている方で、駅の近くにも人はあまりいない。駅舎の前のバスロータリーに大人が何人か並んでいる程度で、タクシーも今は一台も停まっていなかった。


 電子マネーで料金を支払って、改札を通ると、すぐ目の前にホームがある。線路は道路と同じ高さにあるから、下りようと思えばすぐに線路まで下りられそうだった。

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