第8話

 月夜の家に到着した。一般的な一軒家で、非常にまとまっている、という点を除けば、特に目立った特徴はない。彼女は一人暮らしだから、当然窓に明かりは灯っていない。家族団欒といった雰囲気からは程遠く、しかし、だからこそ、彼女がここに住んでいる、という事実に納得できるような感じだった。


 いつもなら玄関先で別れる真昼が、今日は月夜のあとをついて玄関に至る。彼女が鍵を開けると、彼も一緒に家の中に入り、靴を脱いでリビングへと上がった。


 月夜がリビングの照明を灯す。室内は清潔で、一人で使うには空間的に余るように見える。リビングに入ると、すぐ右手にキッチンがあって、冷蔵庫や食器棚が並んでいる。水切り台には何も置かれておらず、彼女がきちんと食事をとっているのか、真昼は少し心配になった。


「私は、お風呂に入ってくるから、君は、ソファに座って、テレビでも見ているといいと思う」


 月夜はソファへと近づき、そこに自分の鞄を下ろす。ソファの前にテレビがあり、ちょっとした通路を挟んで、右手にテーブルが一台あった。椅子は二脚配置されている。

「いや、君が入る前に、僕が先に入った方がいいんじゃないかな」真昼は提案する。


「どうして?」


「どうして、と訊かれても……。……まあ、君がいいと言うなら、それでいいけど」


「いいよ、なんでも」


「じゃあ、どうぞ、先に入って下さい」


「分かった。先に入ります」


「どうして敬語なの?」


「ん? 変だった?」


「うん、君らしくないね」


「私も、今、そう思った」


 そう言って、月夜は颯爽とリビングから出ていく。ドアが静かに閉まって、鋭利な静寂が辺りを包んだ。


 しんとした空気に耐えられなくなって、月夜はガラス戸を開け、シャッターを少しだけ上げる。夜の冷えた空気が室内に流れ込み、どこからともなく梟の鳴き声が聞こえてきた。近くには、まだ少し自然が残っているから、ときどき鳥や虫の気配を感じる。本当にそうかは分からなかったけれど、空気が澄んでいるような気がして、たちまち新鮮な心持ちになった。


 戸を開けたまま真昼はソファに座り、リモコンを使ってテレビの電源を入れる。けれど、今は深夜で、あまり面白い番組はやっていなかったから、彼はすぐに電源を切った。


 流れ行く風。


 程良く心地良い。


 天井を見上げたまま、彼はぼんやりとくだらない思索をする。


 考えてみれば、真昼はここに来たことが何度もあった。それでも、どういうわけか、彼はなかなかここの空気感に慣れない。女性の家だから、というのも理由の一つかもしれないが、そんなチープな理由ではなく、何やら特殊な原因があるような気がする、というのが彼の素直な感想だった。その原因がどういうものか、おそらく、それは言葉で説明することはできない。月夜という同級生がいて、彼女にじっと見つめられると緊張するみたいに、理由も根拠もない恐怖がどこかに存在しているのだ、と彼は感じる。それは、どちらかといえば、心地の悪いものではなかった。むしろわくわくすると言った方が近い。エキサイティングというか、スリリングというか、とにかくプラスの感覚なのだ。


 そんなふうに感じるのは、もちろん、月夜自身が関係しているのだろう。場所が大切なのではない。彼女という一人の人間がいて、その彼女がここに住んでいる、という条件が重要であるように彼は感じる。


 彼女は、自分にとって大切な存在なのかもしれない、と真昼は思った。


 そう……。


 月夜といると、彼女が、なくてはならない存在のような、自分の一部のような、そんな不思議な感覚に囚われる。


 何がそうさせるのだろう?


 もしかして、自分に原因があるのか?


 ……その可能性は、今まで少しも考えなかった。彼女だけを見ていたから、それだけで精一杯で、自分に目を向ける余裕がなかったのだ。


 天井の付近は暗く、白色の壁紙に影が映し出されている。それがまるで自分たちのようで、真昼は少しだけ可笑しかった。声を上げて笑うと、途端に喉が乾いたので、彼は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出して、それをコップに注いで喉を潤した。


 再びソファに戻る気にはなれなくて、先ほど開けたガラス戸から外に出て、真昼はベランダで夜風を浴びることにする。外は心地の良い温度ではない。風は冷たくて、湿気はあまりなく、尖っている、といった表現が最も当て嵌まる。彼はこの土地が好きだった。愛している、とまではいかないが、帰りたい、と思えるほどには、愛着があることは確かだ。近くに街灯もなくて、ただただ暗い住宅地が、見える限りどこまでも続いている。彼は、昔、こういった世界観のファンタジー作品を読んだことがあった。小説ではない。少し分厚い絵本で、しかも外国のものだった。だから、当然、そこに描かれているのは海外の町並みだ。それでも、目の前に広がるこの住宅地が、彼の頭の中でその絵本の風景と重なった。

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