第7話
真昼は、これから、月夜の家に向かうところだった。といっても、いつものように彼女を自宅に送るだけではない。今日は彼も彼女の家に泊まることになっていた。泊まるといっても、それほどビッグなイベントではない。月夜はいつも夜ご飯は食べないらしいから、彼女の習慣に合わせて、彼も食べないことにしているし、睡眠をとるといっても、健康的に七時間も眠ったりしない。おそらく、何もしないでぼうっとした時間が過ぎ去るだけだろう。しかし、人が何をしようと規則正しく過ぎ去る、というのが時間の持つ特性だから、彼らの行為は、その特性を最大限まで引き出す、というふうに考えることもできる。人間は、考え方一つで世界を変えることができる。事実は一つなのに、個人が考え方を変えれば、世界そのものが変わってしまう。
今日は空に月は見えなかった。
今は十一月だから、少しだけ肌寒い。けれど、二月みたいに、凍えるほど寒い、というわけではなかった。なんでもそうだが、極端なのよりも、中立的な立場が一番良い。暑すぎず、かといって寒すぎず、そんな微妙な地点でバランスをとり、決してどちらにも傾かない。それが「優しさ」というものだ。
そして、それは、恋愛にも同じことがいえる、と真昼は思っていた。
「もうすぐ試験だけど、君は、もう勉強しているの?」真昼が質問する。
「勉強は、毎日している」月夜は答えた。
「素晴らしいね。人間は、学習する生き物だから、君は人間らしい」
「でも、勉強は難しい」
「それは、多大なエネルギーを消費する、ということ?」
「そう……。だから、とても疲れる」
「疲れるのは、生きているからだよ」
「でも、疲れるために、生きているのではない」
「それはそうさ。目的なんて、もともとどこにもないんだよ。たまたま、ある一定の流れの中で、人間という生き物が生じてしまった、というだけでしかない。けれど、その内の一つが君だと思うと、ロマンチックで感動してしまうね」
「うん、よく分からなかった」
「よく分からないなら、うん、なんて言わないでよ」
「ごめんね」
「いやいや、冗談だから、気にしなくていいよ」
「君の冗談は、少し、判断するのが難しい」
「少し、というのは、どれくらいなのかな?」
「たぶん、お茶碗四分の一くらいのエネルギーを消費して、やっと答えが出る、というくらいだと思う」
「じゃあ、たぶん、というのは、お茶碗でいうとどれくらい?」
「うんと、八分の三杯、くらいかな」
「なかなか細かいね」
「なかなか、というのはどれくらい?」
「もう、勘弁してよ」真昼は笑った。「君のネタを真似た僕が悪かった」
「ネタって、何? お寿司のネタ?」
「君は、魚介類だと、何が一番好き?」
「玉子、かな」
「それは魚介類じゃない」
「魚介類って何? 貝は、魚介類? タツノオトシゴは、魚介類? イソギンチャクは、魚介類?」
「たしかに、そう言われてみると、分類についてもう少し勉強する必要があるね」
「君は、勉強はしてないの?」
「してるよ、少しだけ」真昼は月夜の口の前に自分の掌を翳し、彼女に伝える。「ああ、少しだけとは、どのくらいか、という質問はなしね」
「うん、分かった」
「学校の勉強はしてないけど、ほかの勉強はしているよ。たとえば、お金の稼ぎ方、とかね」
「お金が欲しいの?」
「うん、まあ、正直に言うと、あまり欲しくない」
「どうして?」
「際限がないから」
「際限?」
「そう……。つまり、いくら稼いでも、ゴールがない。だから、いつまでも終わらない。僕は、できるなら働きたくないから、そうなると、やっぱり、お金なんて稼がない方がいいかな、と思ってしまうんだ」
「思ってしまう、と、被害を受けたみたいに語るのは、どうして?」
「実際に、被害を受けたから」
「どんな?」
「話がずれてるね」
「うん、そうかも」
「とにかく、普通に生活できるくらいあれば、お金なんてそんなにいらない。で、僕が勉強したいのは、そういうお金に関する人の考え方というか、心理というか、まあ、そんなものだ」
「具体的には?」
「経済」
「経済も、社会も、抽象的な言葉だと思うけど」
「そう?」
「うん……」
「じゃあ、月夜と、真昼は、具体的?」
「どうかな」
「僕は、抽象的だと思うよ」
「思うというのは、具体的?」
「さあね、どうかな」真昼は、面白くて、つい声を上げて笑ってしまった。「君の指摘はいつも的確だから、困るなあ」
「困るの?」
「いや、困らないけど」
「あまり、困らないでほしい」
「へえ、どうして?」
「君が困ると、私も困るから?」
「どうして、疑問形なの?」
「うーん、どうしてかな……。もう、眠いのかな……」
「帰ったら、すぐに眠る?」
「その前に、お風呂に入って、髪を乾かす」
「髪を乾かしてから、お風呂に入ったら、きっと面白いね」
「誰が?」
「それを見ている僕が、面白く感じる、という意味」
「面白いの?」
「少なくとも、愉快だ」
「そっか」
「あ、もしかして、僕のためにやってくれるの?」
「ううん、やらない。やっても、私は、あまり面白くないから」
「僕が困ると、君も困るのに、僕が面白くても、君は面白くないんだね」
「うん……、まあ、そうかな……」
「どうしたの? 悲しいの?」
「うん、ちょっと」
「君は優しいね」
「優しいというのは、具体的? それとも抽象的?」
「おそらく、準具体的」
「どうして?」
「分からない」
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