第2章 明

第6話

 その日、真昼は月夜のもとに訪れた。


 真昼というのは人の名前で、月夜というのもまた人の名前だ。少年や少女と表現するのが最も相応しい彼らは、学校の正門を出て、街灯のない夜道を二人並んで歩いた。住宅地を散策するように歩いても、特に真新しい発見をすることはない。もう、何度もこの道を歩いたことがあって、はっきりいって飽きてきていた。だから、今度は少し違う道を歩いてみよう、と真昼は月夜に提案する。彼が月夜に何かを提案するときには、いつも、彼の中に、「彼女なら了承してくれるに違いない」といった確信のようなものがあった。


「ねえ、月夜」歩きながら真昼は言った。「今度、僕と一緒に、夜の遊園地に行かない?」


 真昼がそう尋ねると、月夜は彼に冷徹な視線を向ける。しかし、冷徹といっても、そこに敵意が含まれているわけではない。彼女の瞳を見たとき、そこにちょっとした冷たさを感じる、というだけのことで、マイナスな感情も、人を怖じけさせる殺意も、彼女の瞳にはまったく存在していなかった。


「うん、いいよ」


 真昼の顔を見たまま、月夜は何の躊躇いもなく了承する。


 予想通りに事が運んでしまったから、真昼はちょっとだけ拍子抜けしてしまった。


「君は、僕が何かをお願いすると、いつもそれを受け入れてくれるね」


「いつも、ではないと思う」


「そう? 僕の統計によると、限りなく百に近い」


「百、というのは、どんな単位に基づいているの?」


「パーセント」


「じゃあ、百パーセント、ということ?」


「そうだよ。百分率なんて、実生活ではなかなか使う機会がないね」


「今、君が使った」


「今は実生活じゃないんだ」


「どういう意味?」


「君と一緒にいるときは、実生活という感じがしない」真昼は言った。「君の言動には、そんな不思議な魅力が隠されているんだよ、月夜」


 真昼に言われたことを、月夜は頭の中で検討する。しかし、どのような角度から観察してみても、彼の言う内容は少し違う、というような気がした。


「そんなことは、ないと思う」


「それは、君が自分のことを知らないからだ」


「君は、私のことを知っているの?」


「うん、少なくとも、君以上には知っている」


「君以上、というのは、どんな数値に基づいて、どんな単位に基づいて、言っているの?」


「たとえば、君が六十ヘルツだとしたら、僕は八十キロヘルツ、という感じだよね」真昼は説明する。「だから、どうしても君と僕とでは混信できない、というわけだ。混信なんて、しないに越したことはないけど、ま、少しは、ノイズが入った方が趣があるかな」


「よく分からなくて、ごめんなさい」


「何、謝る必要はないよ。僕の説明がいい加減なだけだから」


「うん、そうだよね」


「え、それって、ちょっと酷くないかい?」


「そう?」


「ああ、傷ついたなあ……」真昼は笑う。「どうしよう、もう、二度と学校に生きたくなくなるかもしれない」


「それは、私のせいじゃないと思う」


「そう?」


「うん……。……でも、もし、本当にそうなら、申し訳ない、と思う」


 そう言って、月夜は本当に申し訳なさそうな顔をする。彼女が本心からそう思っているのか、それを確かめる手立ては存在しないが、それでも、真昼には、彼女の発言に裏表がない、ということがなんとなく分かっていた。


 だから、今度は彼の方が申し訳ない気持ちになってくる。


「いや、僕の方こそ悪かったよ。ごめん、本当は、冗談のつもりなんだ」


「うん」


「ところで、今は何時?」


「えっと、二十三時十六ヘルツ」


「それ、冗談のつもり?」


「いや、励ましのつもりだった」


 沈黙。


 彼らの会話には、ほとんどの場合意味がない。意味がない、というのは、有益な情報が含まれていない、という意味だ。反対に、この世界に存在するもので、意味がある、つまり、有益な情報が含まれているものは意外と少ない。テレビで放送されていることや、新聞に掲載されていることも、個人的な観点からいえば、全然重要ではないといえる。そう考えると、こういった、彼らがしている何気ない会話の方が、個人的な観点からは重要である、といえるかもしれない。多くの場合、意味がないという言葉は、客観的な視点から見て意味がない、という意味で使われる。会話をしている彼らは主体だが、それを記述する身は客体だから、どうしてもそんなふうに感じてしまう、というわけだ。


「月夜、君は、僕といて、本当に楽しいの?」


 話すべきサブジェクトが見つからなかったから、少年はあえて馬鹿げた質問をした。


「楽しいというのは、どういう意味?」


「うーん……。それは、なかなか難しい質問かもしれない」


「難しいというのは、どういう意味?」


「うん、それも、なかなか難しい質問だね」


「そうかも」


「君は、どう思うの?」


「楽しいというのは、積極的にエネルギーを消費したい、という意味。難しいというのは、多くのエネルギーを消費する、という意味」


「どちらもエネルギーの問題だね」


「うん、生き物だから、当たり前だと思う」


「じゃあ、君は生きているの?」


 真昼の質問を受けて、月夜は驚いたような顔を彼に向ける。


「その質問に対する答えを出すには、多くのエネルギーを消費することになるから、できるなら、あまり、積極的に考えたくない、と思う」


「なるほど。難しいんだね」


「うん、そう」


「君は、難しいことは嫌い?」


「私は、楽しい方が好き」

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