第5話
いつも電車で帰る道を歩いて通るから、普段とは違う発見がある。けれど、それほど長い旅程というわけでもないから、家にはすぐに到着する。電車を使った方が便利だというだけで、決して歩けない距離ではなかった。それに、新しい発見があるといっても、電車で移動するときと視点が違うだけで、歩いて帰ったことも何度かあるから、完全に新鮮な気持ちにはなれない。今日みたいに夜に下校することもあったから、どちらかというと、久し振り、といった方が正しかった。
少年が歩く速度も、月夜が歩く速度も、もともと大して変わらない。だから、お互いに余計な労力をかけなくて済む。愛情は、自分を殺して相手に尽くすことで生まれるが、できるなら、自分を殺す度合いが小さくて、相手に尽くす度合いが大きい方が良い。マイナスが少なくて、プラスが多いなら、それ以上のものはない。しかしながら、実際にはそう上手くいくことは少ない。適度にバランスをとろうとしても、必ず多少はどちらかに傾く。二人の場合、少年はどちらかというと自分勝手で、月夜は彼に対して従順だったから、少年から見ればプラス、月夜から見ればマイナスだった。
その差は、大々的に示すべきものではない。誤差の範囲内として処理できる。月夜も、彼も、自分のことが大切だったが、それと同じくらい相手のことも大切だった。少年は、自分で自分を好きになれないと言ったが、それは彼の理想が高すぎるせいかもしれない。月夜にはそれが分かっていたから、彼の説明を黙って受け入れることにした。
左右には住宅街が広がっている。街灯はすべて消えていて、不審者がいても気づかない可能性が高い。照明が機能を果たしていないのは、そういった人物が少ないからかもしれないが、それ以上に、エネルギーの消費を押さえたい、といった誰かの意思がはたらいていると考えた方が自然だ。光があれば、自然と人が集まってくる。だから、光を消せば、人はあまり集まらない。輝いているスターがいれば、誰だってその人のもとに集まりたくなるし、コンサート会場の照明が消えれば、人々は自然と駅の方へと流れる。人も、結局のところ蛾と変わらない。それが悪いという話ではなく、むしろ月夜はそんな哀れさが好きだった。
結果的に、家に着くまで一時間ほど歩き続けた。
少し疲れて、息が上がってしまった。
玄関の前で月夜が振り返り、少年に小さく挨拶をする。
「さようなら」
少年は軽く手を上げ、それに応じた。
「うん、またね」
彼が暗闇の中に消えるまで、月夜はその背中を見続ける。少年は途中で振り返り、彼女だけに聞こえる声で言った。
「そういえば、僕には名前がないから、君につけてもらおう、と思ったんだけど」
「名前?」月夜は首を傾げる。「私は、名前をつけたことがないから、ほかの人に頼んだ方がいいと思う」
「でも、君につけてもらいたいんだ」
少年の要望を聞いて、月夜は頷いた。
「分かった」
「すぐに考えられそう?」
「すぐというのは、どれくらいの時間?」
「寒いから、五分くらいでお願いできる?」
「うん、できる」
「じゃあ、少し待つよ」
「うん……」
あと五時間もすれば、二人とも再び学校に向かう。すぐに再会できるから、それまでに考えるという方法もあったが、月夜は、彼に頼まれたことは基本的に断らなかった。
二分と三十秒が経過して、月夜は答えを出すに至った。
「できた」
少年は顔を上げる。
「どんな名前になった?」
「私が月夜だから、君は真昼」
彼女の返答を聞いて、少年は笑った。
「随分と単純な名前だね」
「そう?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、変える?」
「いや、いいよ、そのままで」少年は頷く。「僕は、これから、真昼、でいくよ」
「変な名前で、ごめんなさい」
「大丈夫だよ、これで」
「うん」
「じゃあ、またね、月夜」
「おやすみなさい」
前を向いて、真昼は夜の街へと消えていく。
月夜は玄関を開けて、家の中に入った。
ドアが閉まる。
日の光が、地平線の下で待っていても、彼女の夜は終わらない。
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