第4話
天井のどこかで回る換気扇が、この部屋の空気を撹拌している。プロペラが回転する度に過去が消去されて、数秒先の未来が作り出される。そんな奇妙な連想をしている間にも、時間は確実に過ぎ去り、気づいたときには自分はすでにそこにいない。月夜は、そんな訳の分からない連想をすることがあった。自分で考えたいと思っているわけではなくても、自然とそういったことを考えてしまう。だから、無意識の内に、彼女の中の誰かが、そんな思考を望んでいるのかもしれない。
それでは、その発想は何のためにするのだろう?
彼女には分からなかった。
月夜は椅子から立ち上がり、背凭れにかけてあったリュックを背負う。
「もう、帰るの?」彼女の様子を見て、少年が質問した。
「うん、帰る」
「じゃあ、送っていくよ」
「うん」
「忘れ物はない?」
「たぶん、忘れて困るようなものは、ない」
少年は笑った。
教室の扉を開けて、リノリウムの廊下を歩く。細かい穴がいくつも開いた天井がずっと向こうまで続いていて、非常灯が二人をその先へと誘った。消火栓の赤いランプと、水道から漏れ出る水の音を頼りに、二人は昇降口へと向かっていく。廊下にある窓はすべて鍵がかかっていたが、その向こう側に広がる空は、すぐにそこにあるように感じられた。
昇降口で外靴に履き替えて、裏口を目指す。ビオトープに棲む蛙が、何かを呼ぶように鳴いていた。
月夜が言った通り、裏口に鍵はかかっていない。監視カメラもないから、誰も二人の姿を捕捉することはできない。
それでも、木菟だけは、きっと彼らを捉えている。
街灯もない夜道を、二人は並んで歩いた。
「君は、どうして学校に来ているの?」
歩き始めて数分してから、少年が月夜に尋ねた。
「学校で勉強するのは、権利だから」彼女は話す。「権利は、正しく使う必要がある、と聞いたことがある」
「うん、それはそうだね」
「君は、どうして?」
「え?」
「どうして、学校に来ているの?」
「さあ、どうしてかな」
「理由もないのに、来ているの?」
「そうかもしれない」
「学校は楽しい?」
「うん、まあね」
「どこが、一番楽しい?」
「それは、場所を訊いているの? それとも、何が楽しいか、という質問?」
「どっちも」
「場所は教室で、楽しいのは、下校しているときかな」
「下校は、今してるよ」
「そう。君と帰るのは、それなりに面白いんだ」彼は言った。「でも、それは、日中に学校に通っているからだよ。もし下校だけ独立して取り出すことができても、きっとそこに面白さはない。過程が大事だということだね。何事もそうかもしれない。人生だって、ただ死ぬだけではつまらない。ずっと生きてきたから、死ぬときにそれなりに納得することができるんだ」
「君は、いつかは死にたい?」
「うん、いつかはね」
「どんなふうに死にたい?」
「君は?」
「私は、一人で死にたい」
少年は黙った。
自動車が通らないから、二人が黙れば辺りは静かになる。
月が二人を見下ろしていた。
「……どうして、一人で死にたいの?」彼は尋ねる。
「一人の方が、寂しくないから、だと思う」
「どういう意味?」
「周りに誰かがいたら、その人が、悲しい思いをするかもしれない、と気を遣わなくてはならなくなる、という意味」
「それが、寂しいの?」
「うん、寂しい」
「人が寂しさを感じるのは、どうしてだろう?」
月夜は黙って考える。
涼しい風が二人の間を通り抜けた。
「自分にとって損失になるから、感覚的に辛い思いをすることで、死を未然に防ぐためだと思う」彼女は言った。「自分にとって不利益だから、綺麗じゃない、ということ」
「でも、寂しいのは、綺麗だよ」
「そう?」
「そうさ」
「君は、寂しいは、綺麗、と感じるの?」
「うん、感じるよ」
「そっか」
「君は感じないの?」
「うん、感じる」
「それじゃあ、君が言った『綺麗』の定義は、もう一度考え直さないといけないね」
「そうかも」
「がっかりした?」
「何が?」
「自分の定義が、批判されて」
「いや、あまり」
「じゃあ、少しはしたんだね」
「がっかりはしてないけど、不利益でもないから、それでよかった」
「それって、どれのこと?」
「うーん、分からない。もう、眠くて、あまり頭が回らない」
「そう。じゃあ、すぐに寝るといいよ。歩きながらでも、眠れないことはないから」
「君は、歩きながら眠れるの?」
「眠ろうと思えば、いつでも眠れる」
「私は、眠ろうと思ったことがないよ」
「いつも、自然と眠ってしまう、ということ?」
「そんな感じ」
「いいね。眠る努力をしないでも眠れるのは、エネルギーの消費が最小限で、綺麗だ」
「綺麗?」
「うん」
「私と、睡眠は、どっちが綺麗?」
「どっちも」
「どちらかだったら、どっち?」
「睡眠」
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