第3話

 二人が口を閉じると、途端に静寂が辺りを支配するようになる。静寂とは、何も聞こえないという意味ではない。音は確かに存在する。それらの音は確固とした意味を持たないから、意味を認識する人間にとっては、何も聞こえないのと同等になる。


 月夜は再び本を手に取り、ページを捲って読書を再開した。自分がどこまで読んだのか覚えていなくても、物語はどこを読んでも面白い。自分ではない誰かの人生を謎る行為は、時空を超えるみたいで、自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。もしかすると、自分はどこにもいないのかもしれない。それでも、少年が彼女を認識してくれるから、そうやって他人から把握されて、初めて自分が存在するのが分かる。人間は一人では生きていけないというのは、おそらくはそういう意味だろう。人間は、自分一人しか存在しないのなら、自分を把握することすらできない脆弱な思考力しか持っていない。


「もう少し、君のことが知りたいな」教室の後方に移動していた少年が、沈黙を破って彼女に質問した。


 月夜は本を持ったまま、顔だけを後ろに向けて、彼の姿を捉える。


「私?」


「うん、そう」


「具体的に、どんなことが知りたいの? それと、もう少し、というのはどれくらい?」


「最初に具体的な内容を決めないで、ランダムに物事を知りたいんだ。それから、もう少しというのは謙遜だから、あまり気にしなくていいよ」


「あまり、というのは、どれくらい?」


「それも気にしなくていい」少年は笑う。「僕が量的な言葉を使っても、君が気にする必要はない、と伝えておくよ」


「分かった」


「じゃあ、まずは……。君は、どんなタイプの人が好みなの?」


 月夜は読んでいた本をまた閉じて、それを机の上に置く。


「それは、どういう意味?」


「うん、つまりね」少年は手近な席に座った。「君の恋愛感覚について尋ねているんだ」


「恋愛と、親交は、何が違うの?」


「恋愛は、生物学的にいえば、よりよい個体を残せそうだ、と遺伝子が判断した者に向けられる感情と、それに基づく関係。そして、親交は、自分に楽しみを与えてくれる者に対して向けられる感情と、その関係のこと」


「じゃあ、恋愛も、親交も、綺麗?」


「たしかに、そうかもしれない」


「君はどんな人が好きなの?」


「僕? 実は、僕は、なかなか他人を好きになれないんだ」


「どうして?」


「自分が嫌いだから」


「自分が嫌いだと、どうして他人を好きになれないの?」


「物事は、すべて、まず自分に起こり、次に他人へと向かうからだよ」少年は言った。「たとえば、自分でルールを守れなければ、他人にそれを強要することはできない。それと同じ。まずは自分を攻略し、次に他人の攻略に挑戦する。自分を攻略できなければ、他人に挑戦することはできない。だから、自分を好きになれない僕は、そこで足止めを食らって、次の段階に進めないんだ」


「それは、理屈? それとも、言い訳?」


「なかなか鋭い質問だね」


「どっち?」


「うん、たぶん、言い訳」


「うん、私もそう思う」


「君ってさ、裏表がないよね」


「裏と、表?」


「そう……。つまり、人を選ばない、ということ。それはいいことかもしれないけど、自分を危険に晒すこともあるから、気をつけた方がいいよ」


「うん」


「で、君は、どんなタイプの人が好きなの?」


「私は、とりあえず、君が好き」


「とりあえず、というのは?」予想外の答えで、少年は思わず笑ってしまった。


「君がしてくれた説明と照らし合わせて、自分にとって相応しい回答を考えたら、そうなった」


「今のところ、僕は好きだ、ということ?」


「そう」


「それは、なんていうのか、まあ、嬉しいよ」


「誰が?」


「僕が」


「私も、嬉しい」


「へえ、どうして?」


「君が、嬉しいから」


「その感情は、綺麗?」


「結果的に私も嬉しくなって、それは私の利益になるから、綺麗」


「その台詞、ほかの人には言わない方がいいよ」


「……どうして?」


「僕以外の人間には、通用しないと思うから」


「それは、何を根拠に言っているの?」


「根拠はない。けれど、なんとなくそんな気がする。僕は、心が狭いから、すぐに諦める癖がある。君がそういう性格をしていても、ふーん、と思うだけで終わってしまう。気に食わなかったり、気に入らなかったりしても、なんとなく受け流せる、ということ」


「うん」


「だから、君のその言葉にも、ちゃんと好意が含まれているんだな、と勝手に解釈した」


「そう……」


「……もしかして、傷つけてしまった?」


「え、なんで?」


「いや、寂しそうな顔をしているな、と思ってさ」


「そう?」月夜は自分の頬に触れる。


「いや、それは違うか」彼は言った。「君は、いつもそんな顔だったね」

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