第2話

 学校という場所は、夜になると化物の巣窟になる。そんな怪談話を聞いて、友達と一緒に夜の学校に忍び込んだことがあったな、と月夜は昔のことを思い出した。確か小学生のときのことだった。彼女の方から言い出したのではない。多くの場合、月夜は自ら提案をしない。そのときも友達に誘われて、断る理由がなかったから付き合った、というだけだった。無責任といえばそうかもしれないが、彼女が友達についていっても、それで迷惑を被る人間は誰もいない。そのときから彼女は一人だったし、両親の代わりになる人間は誰もいなかったから、もしかすると、そんな寂しさを紛らわすために、友達の誘いに乗ったのかもしれない。


「とても静かだ」


 少年は椅子から立ち上がり、教室の中を歩き回る。自主的な行動が少ない月夜とは対象的に、彼は割とひっきりなしに動く。それが自分の使命だとでもいうように活動するから、月夜は彼が不思議だった。そんな彼の行動を見ても、彼女がそれを止めようと思うことはない。そもそも、止める必要がない。余程危ないことをしない限りは、自分が彼に干渉する必要はない、というのが彼女の基本的なスタンスだった。


「君は、明日はどうするつもり?」窓の傍に置いてある花瓶を手に取って、少年が質問した。


「どうって、どういう意味?」


「今日は家に帰らないで、明日はどうやって、学校で生活をするの?」


「まだ、零時を迎えていないから、なんとかなると思うよ」


「じゃあ、やっぱり一度家に帰るの?」


「うん」


「そう……。それなら、どうやって校門の外に出るか、考えておかないとね」


「たしか、裏口が開いているから、大丈夫」


「裏口? どうして、開いているの? もともと、鍵がかかっていない、とか?」


「分からないけど、いつも開いている」


「心当たりは?」


「心当たりは、ない」月夜は答える。「何か分かったら、君に教えるね」


「いや、いいよ、別に」


「……どうして?」


「気になるわけではないんだ。ちょっと、話がそういう流れだったから、訊いてみようかな、と思っただけで」


「そういう流れって、どういう流れ?」


「君に尋ねた方がいいかなと思った、ということ」


「うん」


「それでよかった?」


「うーん、分からない」


「分かる必要はないよ」


「うん」


「君は、花は好き?」少年は花瓶から水仙を一本引き抜く。


「どちらかといえば、好きだと思う」


「具体的に、どんなところが?」


「花は、どれも綺麗だから、綺麗なものは、好き」


「君の、綺麗、の基準は?」


「基準って?」


「どういう条件が揃ったら、綺麗と感じるか、というデータ」


「それは、考えたことがないから、分からない」


「じゃあ、ちょっと考えてみてよ」


「どうして?」


「気になるから」


 少年がそう言うと、月夜は冷徹な視線を彼に向けて、一度頷いた。


「分かった」


 彼は満足そうに笑い、窓の外に顔を向ける。


 当然、今、この学校には彼らしかいない。反対にいえば、二人がいるだけで充分だった。この世界に存在するものは、過密にも、過疎にも、そのどちらの状態にもならない。自然と淘汰され、必然的な量としてそこに存在する。だから、彼も、彼女も、今この場所に存在するべく存在する、と考えることもできる。ただし、どのように考えても、それで事実が変わるわけではない、ということを留意しておく必要がある。考えるのは人間の特権だが、どのように考えても、世界そのものが変わることはない。


 窓の外に街の明かりは見えなかった。近くに人が住んでいないからだ。ここから歩いて帰るとなれば、多少なりとも時間がかかる。月夜は、毎日電車に乗ってここに来ていた。けれど、歩いて帰ることもできなくはない。少年は、いつも月夜を送ったあと、そのままどこかへと消えていく。だから、もしかすると、彼はどこにも住んでいないのかもしれない。宇宙は広いから、彼が地球に住んでいる確証はない。そんなふうに考えられるのも、このファンタジックな空気感があってこそだ、と月夜は考える。


「うん、分かった」


 暫くして、月夜は彼の質問に対する答えが出たから、呟いた。


「私に利益を与える可能性があるものは、すべて、綺麗だと感じる」


 少年は彼女を見る。


「じゃあ、君にとってプラスになるものは、全部綺麗なんだね?」


「うん、そう」


「僕は、綺麗?」


「うん、綺麗だよ」


「君にとって、利益になる?」


「うん、なる」


「どんな?」


「一緒にいると、楽しい」


「本当に?」


「本当」


「どれくらい楽しいの?」


「どれくらいというのは、どんな単位を使って表現したらいい?」


「うーん、色々あるけど、ノット、が一番適切かな」


「一ノットは、どれくらい?」


「さあね、僕には分からない」


「それじゃあ、上手く説明できないよ」


「うん、それでも、やってみるから、面白くなるんじゃないか」


「君は面白いの?」


「面白いね、とても。君は?」


「面白いよ。そして、楽しい」


「で、僕の価値は何ノットくらい?」


「たぶん、五・二ノットくらいだと思う」


「へえ、どうして?」


「なんとなく、そう思った」


「なるほど」


「面白かった?」


「うん、まあ」


「まあというのは、どれくらい?」


「三ノットくらいかな」


「そう、分かった」


「分からないよ、全然」

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