舞台装置は闇の中

彼方灯火

第1章 光

第1話

 暗闇月夜は、その日家に帰らなかった。


 閑散とした学校の教室で、彼女は自分の席に座り、黙って本を読んでいる。黒板が生み出す暗黒が室内に充満し、窓の外から差し込む月明かりはスポットライト、規則正しく整列した机は生物を形作る細胞を連想させ、この空間を独立した場所として際立たせている。音がなければ空気もない。いや、もちろん空気は存在するが、彼女が呼吸をしても、取り込まれる酸素と、吐き出される二酸化炭素の量が均一である限り、存在しないのと同じことになる。とにかく、広がりゆく暗黒の世界で、彼女は長い間一人だった。


 彼女が家に帰らない理由は特にない。家に帰っても誰もいないから、このまま学校に残っていよう、といった至極簡単な決定を行ったにすぎない。そんな簡単な決定をするのにも、しかし、やはり、最初の内はそれなりの度胸を必要とする。彼女が家に帰らないのは初めてではなかったが、それでも、こんな時間に学校に一人でいる、といった状況は、想像以上にスリリング、そして、想像していた通りにエキサイティングだった。


 窓は開いている。できた隙間から夜の冷たい風が室内に吹き込んで、押さえている本のページをぱらぱらと靡かせた。本を読むとき、彼女は栞を使わない。たとえどこまで読んだか忘れてしまっても、それなら、過去に読んだ部分を、一度も読んだことがないと思い込んで、もう一度読み返すだけだ。こういうことができる人間は、しかし意外と少ないらしい。そういった意味では、彼女は特異な存在だったし、言い方を変えれば、通常ではないという意味で異常だった。


 読んでいた本を閉じ、彼女は軽く伸びをする。澄んだ瞳は月明かりを反射し、今は半透明に輝いていた。青白い光を宿すその瞳は、見るものに冷徹な印象を植えつける。その内側に微かながら確かな暖かさを見出だせる者は、今のところ、彼女以外には一人しかいなかった。


 その一人が、教室の扉を明けて、彼女のもとへやって来る。


 月夜は顔をそちらに向けて、彼と同じタイミングで挨拶をした。


「やあ」


「うん」


 挨拶というものは、しなくても良いと言えば、たしかにする必要はない。してもしなくても意思の疎通はできる。そもそも、何が挨拶か、というのは人によって違っている。片手を上げたり、ちょっとした声を発したり、頷いたり、そうした行為が挨拶として通る人間も存在する。彼女の場合、それは「うん」という簡単な言葉で、これ以上ないくらい簡略化された情報発信だった。


 月夜のもとにやって来た少年は、彼女の隣の席に腰を下ろす。


「今日も一人?」彼が尋ねた。


「うん」月夜はそれに応じる。顔は彼の方を向いて、冷徹さを帯びた瞳が彼の目を射抜いた。


「君は、一人が好き? それとも、誰かといる方が良い?」


「どちらかというと、一人」月夜は説明する。「でも、一緒にいるのが君なら、いい」


 少年は彼女が読んでいた本を手に取り、表紙を眺める。本は新品同様に綺麗で、事実その通り新品だった。けれど、彼女が本を購入した時点で、それは新品ではなくなる。この理屈は、ほかの事象にも通ることが多い。境界線ははっきりとは存在しない。数学の授業で境界条件の示し方を習ったから、月夜は、数学と、ありとあらゆる事象が、根本的な部分で繋がっていることを理解した。


「へえ、古典か」少年が呟く。「君は、古典、という柄には見えないけど」


「そう?」


「うん、そう。どちらかというと、ミステリー、あるいは、SFという感じだね、僕の中では」


「ミステリーは、筆者本人が楽しめる作品で、SFは、誰もが楽しめる作品だと思う」


「どういう意味?」


「そのままの意味」


「じゃあ、古典は?」


「古典は、時代を超えて楽しめる作品」


「まあ、そうだね」少年は何かを思いついたような顔をし、人差し指を立てる。「あ、じゃあ、君は、もし過去に戻れるとしたら、どの時代に戻りたい?」


「どうして、そんなことを訊くの?」


「なんとなく、思いついたからだよ」


「私は、小学生の頃に戻りたい」


「それは、時代とは言わない気がするけど」


「うん……。……時代なら、奈良時代、かな」


「どうして、その時代がいいの?」


「ごめんなさい、適当に言った」月夜は本当に申し訳なさそうな顔をする。「もう少し、考えてから答えればよかった」


「いや、もとの質問が適当だったから、適当に答えるのは、適当だよ」


「そうかな?」


「うん、そう」少年は笑う。「君さ、今の冗談、通じてる?」


「うん」


「面白かった?」


「うん、面白かったよ」


「じゃあ、少しは笑ったら?」


「……私、今、笑っていなかった?」


「笑っていない」少年は言った。「でも、それでいいよ」


 月夜は、余程のことがない限り笑わない。面白いことがあっても、楽しいことがあっても、すべて一律で無表情で処理される。だから、彼女の冷徹さはより一層引き立てられることになる。その中に暖かさを見つけるには、それ相応の技術が必要になる。技術も、技能も、練習すればすべて身につく。問題は、練習する覚悟が自分にあるか、ということだ。

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