誠言 十言目掲載

未言源宗 『磁蝉』

磁蝉じぜみが鳴いているんですよ」

 紫月ゆづきはそう言って、老婆を誘うように高圧電線が鉄塔に括り付けられた、その根元にある碍子と呼ばれる器具へと視線を向けました。

 老婆は朝日に目を細めながら、紫月と同じく、鉄塔から腕を伸ばして円盤を重ねる碍子を見やります。

「そうかい。磁蝉が、鳴いているのか……」

 老婆の目は遠くの見えない星を見るかのように、寂しそうでした。

 紫月はそんな老婆の姿を見ないように、その老婆の気持ちに水を差さないように、努めて視線を磁蝉が宿る碍子へと固定します。

 磁蝉は、高圧電線の碍子が放電により鳴るのを蝉に例えた未言です。

 早朝の静けさの一部として、磁蝉は低く微かに震える唸りを、辺りに振り撒いていたのです。

 その奇怪で不気味さも感じる、寂しい声に紫月は聴き入っていて。

「本当に、歳を取るなんて碌でもないねぇ」

 老婆はぽつりと、呟きを零しました。

 紫月がさらりと髪を肩に擦って、老婆を見下ろします。

「未言は、感じられる人とそうでない人がいる。店主様は、いつもそう教えてくれていたのにね」

 老婆は閉じた瞼の裏で、誰かの顔と声を眺めているようでした。

「昔は、私にも聞こえていたんだよ、磁蝉は。本当なんだよ。……それなのに、もう聞こえなくなっていたのに気づいていなかったんだね。もう気付けなくなった未言はどれくらいあるのか、それもわかっていなかったなんて、店主様に申し訳が立たないよ」

 磁蝉の振動音は、本当に微かなもので、遠のいてしまった老婆の耳にはもう、届いていないのです。

 人によって、見えるもの、聞こえるもの、嗅げるもの、触れるもの、味わえるもの、感じられるもの、それらは違うのだと、未言屋店主はいつもみんなに伝えていました。だから未言を知って、感じられるものを増やせれば、幸せになれる機会が増えるのだと、伝えていたのです。

「店主様は、たくさんの未言を教えてくれたよ。ここも、よく磁蝉が聞こえるんだって、教えてもらって、一緒に磁蝉の声を聞いたんだ。磁蝉は話に聞いて想像してたよりも低くて、恐ろしい声で、こんな声だったのかと驚いたよ。それでね、店主様は、磁蝉は誰にも見向きもされなくて、さみしくて拗ねて鳴いているんだよと教えてくれたんだよ」

 老婆は小枝のように節張って細い指を、高圧電線の碍子へと伸ばします。触れたいと彼女が祈ったのは、磁蝉なのでしょうか、それとももうこの世には亡き誰かなのでしょうか。

 紫月は黙って、老婆の告白を聞きます。

「申し訳ない。私は才能がないだなんて言って、一つの未言も表現しなかった。短歌は詠めない、小説は書けない、絵は描けない。店主様は、それでも構わないって言ってくださったけれど。覚えていてくれる人がいる、知ってくれている人がいる、それだけで未言の力になると、そう言ってもらえた言葉に甘えて、私は未言のために何も作らなかった。こうして今更、未言を見つけらなくなってから後悔するだなんて、遅すぎるのに。店主様、本当に申し訳ございません……」

「なにも、遺せてないわけじゃないですよ」

 紫月は老婆の独白の終わりに、自らの言葉を重ねて繋ぎました。

 老婆が、かくりと、紫月に目を向けました。

「なにも表現してないなんてことは、ないですよ」

 紫月は、さっきと同じ柔らかく心を羽毛で包むような声音で、繰り返しました。

「素敵な語りではないですか。昔話を語るのは、古来より続く日本の大事な伝統ですよ。あなたが語ってくれた今のお話は、未言屋店主のことや、磁蝉のことを、まだ知らない人へ伝えていく、大切な表現です、立派な創作であり、文化であり、未言のための行為ですよ」

 はらりと、老婆の目淵から、滴が落ちて、乾いた肌に沁みていきました。

「ああ、ああ」

 老婆の声が、紫月の耳には磁蝉の声と重なって届きました。

 嗚咽するような、自分を信じられなくて、でも今肯定されて、ここにいるんだと訴える、そんな二つの声でした。

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