誠言 七言目掲載
未言源宗 『上光』
「
「雲の上から透ける太陽や月の光。古くは平安から、誰にも知られない密かな恋心を、氷の下で人知れず流れる下水に例えてきた。どんなに隠そうとしても、溢れ出てしまう恋心を上光に例える」
爽佳は一息に、上光の意味を述べました。
紫月は手を伸ばして、爽佳が割ったサラダ煎餅を二欠け拐って、一つずつ口に入れます。
「なにもわざわざそんな難しい未言を選ばなくても」
のんびりとした紫月の発言に、爽佳はキッと睨み付けます。
「あたしの目的は紫月を完膚なきまでに負かすことよ!」
「はいはい」
気迫に満ちた爽佳の宣言も、紫月はあっさりと煎茶と一緒に飲み込みました。
炬燵から離れた薪ストーブの上で、薬缶の蓋がカタカタと音を立て始めます。
「例えば、今日の空みたいな」
「ええ、例えば今日の空みたいな」
爽佳の例示に、紫月は肯定で返しました。
「上光は、奈月遥らしいありふれた景色を表した未言ね。それでいて、平安貴族みたいな自然の有り様に人の心情を重ねている。枕草子を好み、清少納言が教養の基礎としていた古今和歌集の情緒、たをやめぶりにどっぷりと浸かった未言」
爽佳が熱っぽく上光を説くのを、紫月は柔らかに微笑んで受け止めました。
薬缶の蓋はいつの間にか足踏みを止めて腰を下ろし、薬缶の口から白い靄が薄くたなびいています。
「言ってみれば、あはれの未言でしょう。息を吐くような、ただただ胸に迫り、胸を溢れさせる情景の愛しさ。奈月遥が雲から射す天使の梯子を見て、身を震わせながら潤んだ溜め息を吐いたのは、その手記を見れば想像に難くないわ」
「そうね。未言屋店主は、まだ未言を生むよりずっと前、大学院の帰りに雲の切れ目から降る、レースを透かしたような光の織り成すのを見て、しばし立ち竦んでひたすらに息を忘れないのに必死になったそうよ」
爽佳の真に迫り描き上げた追想を、紫月は本人から聞いた昔語りを持ち出して補填します。
爽佳は白い息を吐き、淡いピンクの舌で自分の上唇を舐めました。
「上光は、奈月遥が最初の未言と述べただけあって、未言らしい未言だし、あはれの未言の代表ね。物事に気付き発見する楽しみに彩られた、をかしの未言、その代表の硝子水が鮮明に具体を浮き立たせるのに対して、上光は曖昧で広がりがある。光は、もちろん雲の上の太陽や月が基本だけど、淡い木漏れ日や和紙越しの蛍光灯も上光足り得る。でも、LEDの直線的で鮮烈な光は当てはまらない」
紫月は、爽佳の目を真っ直ぐに見て、静かに麗らかに頷きました。
「あはれの未言は、上光を起点にして、奈月遥の晩年まで生涯を通じて生み出されていくわ。最初期の
それらは、日本の何処かで誰でも見付けられる未言達です。
未言屋店主は、日常の中に寄り添う幻想をこそ、慈しむ人でした。
「上光の音の遊びも巧みな奈月遥らしい未言ね。下水への対比なんて正しくそう。下に対して上、みずに対してみつ。上光を神が満つると詞掛ければ、乙女の心満たして体から溢れる激情にも確かに通じるわ。乙女チックにすぎるったらない」
「奈月遥は、三十を前にして、恋愛観が中学生女子と言われるくらい、相手と恋の理想が高いから。それはロマンチストよね」
「あたしの目の前の誰かさんと一緒」
「店主の思想と思考を全て受け継ぎ、それ故に未言の在り方を全て理解するからこその宗主ですもの」
爽佳の牽制を、紫月は軽く受け流します。少しも動じずに、紫月は蜜柑を一玉の四分の一を口に含みます。
爽佳はしばし紫月を睨み、そして仕切り直しと言葉を続けました。
「手の届かない天射す光でありながら、少女の胸の奥から射し漏れるもの、上光は崇高で尊貴な自然現象なのに、ちっぽけで幼い恋慕の心情の、不安定で曖昧で掴み所のない未言ね。それが、古くからありながら、創作に使う人が極端に少ない理由かもね」
例えば、未言屋店主が活動を始めた当初、好きな未言、創作の題に取り上げたい未言と言って、周りから声が上がるのは、
「奈月遥は上光を好んでいたから、どんなにか哀しかったでしょうね」
「そうね。未言屋店主は、上光を愛しく想っていたから、上光がみんなと話す中で射し込まないことを、すごく残念に感じていたのよ」
天から降り揺らぐ光に息を絶えそうになった者が、それを未言にして、しかして人に見向きもされなかったのはどんなに無念だったことでしょうか。
上光の手の届かないもどかしさのなんと理不尽なことでしょう。
「それでも、やっぱり上光は街にも射すし、人は上光に憧れるのね」
爽佳はそう締めて、紫月は瞼を緩やかに閉じます。
「ビル群のガラスにそそぐ上光が路地の隅まで満ち足りている」
硝子張りのビルディング・ジャングルに上光が射し込め、硝子窓が鏡になってその細い光を乱反射させる。その光は日陰になるはずの暗がりにも跳ねて、街を満たしてどの人にも届く。そんな歌を、厳かに、凛とした声で爽佳が紡ぎます。
「上光は、何処にでも誰にでも射し込むものよ」
爽佳が頬を火照らせて、そう断言しまして。
紫月は薄らと瞳を覗かせます。
「街を満たした光はもう上光ではないわ」
紫月は、少しも気配を見せずに、言葉の切っ先を振るって、爽佳の結論をばっさりと切り落とします。
思わぬ切り込みに、爽佳は鼻白んで、怖じ気付きました。
「上光は、空より降るもの、想い人へ射すもの。普し神の光にあらず、ただ一処にもたらされる漏れ日」
謳うように、詠うように、紫月は言葉を織り成します。
「砕けた光ならぬ明かりは、最早、上光ではなく、異なるもの。泉と川を別の名で呼ぶように」
爽佳は閉じた口の中で歯を噛み締めて、泣きそうになるのを我慢しているみたいな顔で眉間に皺を寄せています。
愁いを帯びた顔で、紫月は淑やかに歌を詠みます。
「やつしきの
やくもやへがきやへむぐら
さびれやしきに上光のさす」
幾重にも色の彩めく夕暮れの村雲から、生け垣が荒れて叢にも見間違うような寂れた屋敷に、上光がうっそりと射し込める。それのなんと美しいか、それのなんと好ましいか、それのなんと特別であることでしょうか。
それをこそ、上光の在り方と、未言屋宗主は告げるのです。
爽佳は顔を真っ赤にしていました。それでも何も言わないのは、感服しているからに違いありません。
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