未言源宗 『山泣く』

 紫月ゆづきがお風呂から上がり、色宮いろみやと二人で夕食を囲みます。

 食事の合間に、二人は会話を挟みます。

「それで、今度はどの未言なんですか?」

「『山泣やまなく』よ」

 色宮の告げた未言を聞いて、紫月は口に運んだ箸をくわえたまま動きを止めました。

 それからゆっくりとお米を咀嚼し、ごくりと音を鳴らして意識して飲み込みます。

「色宮さん、相変わらず、色にしにくい以前に解釈の難しいのばかり選びますね」

 ついつい紫月は、言外にアホなんですかと非難を込めてしまいます。

 色宮も自覚があるのか、苦笑気味に返事をします。

「分かりやすいのは、若い子に回さないとね。それに、店主様から色造いろのみやつこと呼ばれたからには、簡単なのを選んだら申し訳なくて」

 そう、この色宮は未言を産み出した人と出会い、未言から色を創作する『色造』と称号を授かり、直に教えを承けた方なのです。

 その生業は、当然として色造りです。

 或いは創作した色を紙に塗って展覧会をしたり、或いは画家の依頼で色を造ったり。

 それでいて、収入の大部分は広告やインテリアのカラーコーディネートである辺り、未言屋として稼ぐことの難しさを物語っているような仕事振りだったりします。

 そして夕餉を終えて、食器も二人で片付けたところで、紫月は色宮が作った今のところの『山泣く色』を見せてもらいました。

 付箋くらいの大きさの紙が、茶が勝った黒の潤みが強い色に塗られています。

「あー。あぁ、あー」


・・・・・・


 紫月はおさらいのように話を始めます。

 山道は昨日から降り注いだ雨が山から溢れだして、小川のように水が流れていきます。

 濡れた道は水を通した分だけ黒く陰り、色の明度を落としています。

「はい。色宮さんは、山泣くからイメージした色を、『黒土が混じって流れる雨水の雨の中で照度が少なくさらに陰った茶色味の黒』と定義したと思います」

「ええ、そうね」

 紫月の指摘に、色宮は素直に頷きます。

 日本の土壌は黒土、土壌分類で言うところの黒ボク土で形成されている。なんてことはない、腐葉土が溜まりに溜まった地面だというお話です。

 色宮は山泣く、つまり山肌を雨が流れる時には、その土が雨水に流出すると考えて色を作ったのです。

「さて、あちらの道外れた方を見てください」

 紫月が道の際まで迫った傾斜を指し示します。そこには広葉樹が根を張り、その隙間を埋めるように草の緑が雨に揺れています。

 雨水はどうかと言うと、草木の幹や葉を濡らし或いは玉と浮かぶものの、地面を浸す程の嵩はありません。

 草の途切れた傾斜の端から、唐突に現れて山道に流れ込み、道に沿って山を降るばかりで山肌に水量を増やそうとしません。

「ぶっちゃけて言います。土壌流出するほどの、土石流を起こしかねない大雨なんて滅多に起こりません。草木の根が保持している黒ボク土は、ほとんど雨水に混ざらないんです。降り始めくらいですね、勢いよく土が流れるのは」

 ふむ、と色宮は紫月の説法を頭で巡らせます。

 言葉に宿る色は、その言葉の心象風景を表します。その上で、色宮の『山泣く』への理解が食い違っていたのを、段々と理解して、それを修整しようと脳が目まぐるしく働きます。

「山泣くは、そういう非常事態にはそぐわないということ?」

「そぐわないのではなく、そんなに狭い意味ではないのです。山泣くは、割りと包容力のある言葉であり、ありふれた言葉であるようで、実はそんなに的を射た言葉ではないのです」

「ううん……?」

 色宮は紫月の話す意味を抱えきれずに唸ります。

「まぁ、端的に言うと、土石流も山泣くだし、道が少し雨に浸るのも山泣くということです。尤も、何処かの誰かさんが最後に『山泣いたら、その嘆きに飲まれてしまう前に里へ帰りなさい』なんて老婆心を付け加えたせいで、災害かと勘違いされやすいのでしょうけど」

 つまりは、『山泣く』という言葉が包括する世界の欠片、或いは現象で自然の山が削れる程の集中豪雨はごく一部、ほとんどは表面を水が流れているだけ。透明度の高く水底は見えているのが普通ということです。

「さて、移動しましょうか」

 紫月は次の場所に移動するのに色宮を促します。


・・・・・・


 雨が激しさを増して、世界を曇らせ、車を強く叩き始めます。

 然程時間を掛けずに、二つ目の山泣く場所に到着しました。

「着きました。雨も酷いので、ここから見ましょうか」

 紫月が車のフロントガラス越しに指し示したのは、小さな山でした。

 遠近感で小さく見えるのではなく、正しく小さく、工場程の高さと面積しかない。しかも、木が一本も生えていなくて、黄土色の地肌が全て晒け出されています。

 雨が山肌を削り、麓に走るアスファルトの道に黄色く濁った水を流し込んでおりました。

「あれは?」

「建物の土台とか河川の盛土に使う土砂を切り出してる山です。昔は天辺に一本松が生えていたらしいですが、それも切られたみたいです」

 そこは黒ボク土と違い、さらさらと水に流れる黄土に赤土が混じった土壌です。

「植物の生えていない山は、簡単に流されますし、雨を溜め込む力もありません。山泣く山は、自然の山ではなく人の切り出した山なのです」

「あっ……特に山道に雨水が流れ込み、川のようになること……」

 色宮が呆然と読み上げたのは、山泣くの一説。色を作るために何度も読み返して、諳じられるまでになったのでしょう。

 そして、やっとその意味が現実として、色宮の脳内で浮かび上がったのです。

 山道は、けして自然ではありません。自然の中を人が安全に歩くために開かれたものです。

「山泣くという未言は、自然の情景を詠んだものに見えて、その実は自然に手を加えて起こる人災への警告というニュアンスがあるのです。その痛みを思うと、何れ堪えきれずに嘆きを溢れさせて崩れ流れるのではないかと懸念を付け足さずにはいられなかったようです」

 一息、紫月は言葉を途切れさせる。

「ですが、あの人が山泣くという未言に情緒を感じたのは確かなことです。山道を呑み込む雨の、常にはない川の流れに、人の手で造られた環境に生じた酷く自然を懐かしませる景色をかなしんだのでしょう。要は、程度によっては趣を詠むし、程度が酷ければ危ないと警告する。そんな二律が一語になってるのです」

 色宮はじくじくと許容限界を訴える頭を宥めるように、拳から親指で人差し指の二節目を押し出し、それで自分の額をぐりぐりと押します。

 単純さを哀れみ、短歌も未言も多面的に万華鏡のように複雑な表情を見せて、それでいて一つに納める美しさを求めた初代未言屋店主らしい話だと思います。

 チューブから出る色は扱いやすくても面白味がないから、結局使いこなすのは難しいと、ばっさりと切られた初対面の時を思い出す。

「ねぇ、紫月ちゃん。三千も未言の全てを覚えてて、頭痛くならない?」

「それが当たり前に出来るようにあの人の思考をそのまま身に付けたから、わたしは未言の源流を継ぐ宗主に選ばれたんですよ」

 傍から聞けば、大変どころか異常と見なされる事を、紫月は当たり前で負担がないと言い切るのです。

 しかしよく考えれば未言から色を産み出すという色宮も、一般世間から見れば大概です。

「そういえば、山泣くと言えばですね」

「うん?」

 車を最後の目的地へと向けて、紫月はまた新しい話を始めました。

「未言は、あの人が幼少期から高校まで過ごした会津での経験やその自然風景を基礎にして生まれたものが大半なのですが」

「雪煤とかその典型よね」

 雪がない冬は冬ではなく秋だのと、会津の食べ物は美味しいだのと、初代未言屋店主の故郷への偏愛は身内にはよく知られています。

 しかし、と紫月は山泣くの特殊さを告げます。

「山泣くの原風景は、会津ではなく、小田原なんですよ」

「小田原? ああ、店主様って一時期小田原に通勤してたんだっけ」

「ええ。小田原は坂道が多いんですが、梅雨や秋雨の頃にはアスファルトを流れる雨が本当に川のようだったと語ってました」

 即ち。山泣くという未言はその始まりからして、視線の山ではなく、町中の坂を起源にしていたのです。

「だから、これがあの人の見た『山泣く』なのですよ」

 着いたのは、丘を削り出来た住宅街、その中と麓の街を繋ぐ長いアスファルトの坂道でした。

 その道は丘の住宅街に降った雨を集め、滝の如く急く急く落としています。

 その色は。

 アスファルトは瀝青の名の通り、青味の挿した黒に、僅かに濃い緑が混じった風味をしています。

 そこに雨水が満ちて、アスファルトの色を翳らせて明度をまた一つ下げています。

 雨は深く、晴れは何処を見回しても気配なく、厚い雲は見えない太陽の光を身籠って仄かに明るく、しかして重く大地に近い。

 その重みに堪えきれずに漏らした雨が、辺りを覆います。

 自然の山であれば木々がそれぞれに雨を抱え込み地面へ染み込んでいく雨は。

 一つ道という空間の欠如があればそこへと流れ込み、龍が翔るようにせめぎ、蛇のようにのたうって水を撒き散らす。

 山泣く坂が抱えきれない雨を街の外へと押し流していきます。

「これが山泣く?」

「これが山泣くですよ。一番普通な、ですけど」

 紫月が何か一言付け加えて、色宮は唖然として彼女の顔を見ます。

 くすりと、紫月は悪戯っぽく笑います。

「だって、言葉って使う人によって変わるものでしょ? 色にたくさんの中間色があるように」

「なるほどね」

 してやられたと、色宮は額に拳から突き出した人差し指をぐりぐりと押し付けました。


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