誠言 三言目掲載

未言源宗 『一夜月』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉の未だ。

 彼の人は、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 青々とした山に四方を囲まれた盆地は、太陽から注ぐ熱を溜め込むために、酷く暑いものです。

 アスファルトに固められた地面は呼吸も出来ずに陽炎を焚き、そこから逃れるように彼女は店の奥、入り口から射す日向の届かない畳の上で座っていました。

 彼女の前には、座卓がひとつ。様々な色の紐が幾つも並べられ、その幾つかが花柄や梵天手鞠に結われています。

 今も桔梗柄の浴衣から伸びたたおやかな手が、丁寧に、けれど素早く精細に、銀鼠と藍白の紐を二本ずつ編み、先端で硝子玉を石包みしていきまして。

 きゅっ、と石包みを結び締めて、彼女は前に垂れた揉み上げを耳に掛けて後ろに流し、ついでに額に浮いた玉の汗を拭いました。

 この冷房もまともになく、掃き出しの窓と玄関を開け放って太陽に熱せられた外気で涼を取るしかない店は『未言屋 ゆかり』と看板を掲げておりまして。

 この店を取り仕切る彼女は、その名を紫月ゆづきと申します。

「っ?」

 ふと、紫月は声にもならない音を喉で鳴らし、感じたものを追って視線を窓の方へ向けました。それは目に見えるものでもないのに、まず目を向けてしまうのは、視覚に五感のほとんどを費やしたヒトの性でしょうか。

 されど。目を向けることで見えないものが見える、という訳ではないですが、他の五感も視線と共に意識を向けることで鋭くなります。

「雨、降りそうね」

 紫月はその鼻で湿気の香りを嗅ぎ取り、肌で空気の潤みを感じました。

 腰を上げて窓へ寄り、空を見上げれば。

 入道雲が膨らみきって、太陽を隠します。目映い白の塊は山を越えて伸び、雲の根は何処とも知れません。

 もう間もなく、一時間もしない内に夕立は降るでしょう。

 紫月は、カラカラと窓を網戸の縁まで閉めて、玄関も雨が吹き込まないように閉めようと突っ掛けに足を差し込みます。

 玄関の硝子戸を閉めようと足を向けて、外を見ると。

 アスファルトに黒い点が幾つか落ちています。

「もう降りだしてるや」

 最近は、天気が崩れるのが随分と早いと、紫月は憂いを顔に浮かべます。温暖化の対処に否やが飛ぶ馬鹿らしさに溜め息も出るというものです。

 考えても益のないことはさて置いて、紫月は雨がどれ程降るのか見当を付けようと、玄関から顔を出して雲を見上げまして。

「あれ、お店の人いた」

 そんな驚きの声が横から掛けられて、紫月はそちらに顔を向けました。

 そこにいたのは、リュックサックを背負った見知らぬ女性でして。年の頃は、高校か大学か、肌に張りがあって羨ましいです。Tシャツにジーパンとラフな格好で、ショートカットの黒髪と相俟って快活な印象を受けます。

「あら、まぁ……」

 口振りからして、お客さんらしいと気付いて、紫月は愛想笑いを浮かべました。人は間違いをすると、つい笑ってしまうものです。

 さて、どうしようかと、紫月は頭を悩ませていると。

 ぽつぽつぽつ、と。堰を切ったようにどしゃ降りが始まりました。

 紫月と彼女と。二人して空を呆然と見上げます。

「雨宿りくらいしていきますか?」

「お願いします」


・・・・・・


「さて。あれが未言の一つ、『一夜月ひとよつき』です」

 しかして。紫月が指差したのは、空ではなく地面の方でした。

 すっかり星空に浮かぶ宝石に気を取られていたお客さんは、訝しく思いながら、紫月の指先を辿ります。

 まず、意識に入ったのは、水溜まりです。均された土は凹凸が少なく、あのどしゃ降りが大きな水溜まりとして横たわっていました。

 風もなく、水溜まりは鏡のように夜闇を映し、しかしほとんどの星は光が足りずに見当たりません。ただ一つの天体を除いて。

 曇ることのない水鏡に移るのは、半月にまだ足りない上弦の月。矢を放った後の弛みみたいに、どこかリラックスした雰囲気をしております。

 そしてその月が水溜まりにその姿をそのまま映し、そして水が光を吸って、水溜まりの端へ向けて光の筋を幾本か伸ばしています。

 紫月が、左手の中指で水溜まりを叩きます。すると揺れた水面は光を波打たせ、やがてまた静まり返ります。

「一夜月?」

 聞き返すお客さんに、紫月は頷いて、その未言であっていることを伝えます。

「ええ。水溜まりに映った月のことです」

 紫月の述べたあっさりとした語意に、お客さんは肩透かしを食らったような

けれど妙に心が疼くような、なんとも言い切れない感情に晒されます。

 紫月は、くすりと微笑みまして。さらに『一夜月』という未言が湧く源へと誘います。

「月が映るなら、明日は晴れる。問うまでもない当たり前の未来です。しかして、晴れた明日にはこの水溜まりは消え失せるでしょう」

 お客さんは、はっとしました。この場所に、水溜まりが出来るのはまた幾らでもあるでしょう。しかし、先程のどしゃ降りの水溜まりは、これで終わり、明日には消える。次の水溜まりは、次の雨の遺した名残。

 在り来たりな光景を、その時だけの奇跡と捉える感性を持った人が産み出した、その未言が、一夜月。

「平安の頃、月を観るのは、池に映った月を観ていたそうです。舟を浮かべて揺らぐ月の風情を楽しんだとか。けれど、それは人の手で造った結果ありきの風情です」

 古来より自然を楽しみ、自然を愛でるのが日本人の精神性と言えるでしょう。自然をより美しく感じるために拵えた演出が人の心を惹くのと同様に。ただ自然に、自然の美しさが引き立てられた偶然の刹那に感じ入るのも、和の心です。

 たまたま降った雨が、たまたま水溜まりと残り、たまたま月が間に合った。

 偶々、というのは、言い換えれば不思議ということ。

 それが、すぐ明日には失われる無常を思わせたら、その儚さに情を抱くのが、日本人のわびさひというものなのです。

「ただ一夜限りのかなしみを」

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