第二章「進展と停頓」
静まった教室に響き渡るのは、ひたすらに打ち付ける雨音と、先生の発した数字や記号の数々であった。
ある人は窓の外を眺め頬杖をつき、ある人は先生の一言一句を聞き逃さずペンを走らせる。教室の隅からは微かに寝息が聞こえる。
粛々と授業が進められてゆく中、時計の針が動く音と共に学校じゅうにチャイムの音が鳴り響いた。教室はその音を引き金に、束縛から解放されたかの如く一気にザワつきを見せた。
「来週続きやるぞ。予習しておくように」
先生のその一言に続けて一人の男子生徒が「気をつけ、礼」と言った。その瞬間だけ教室は静まるが直ぐに賑やかさは増していった。
時刻は十二時。午前最後の授業が終わった。
最後まで頭を沸騰させていた桜も溶けるように疲れを顕にした。
「やっと終わりました・・・」
空腹の中闘った数学は中々の強敵であった。
数字は幾度も括弧に覆われ記号は縦横無尽に飛び回る。目が渦を巻いてしまうのは漫画の世界だけでは無い気がした。
それらを乗り越えた心身はともに栄養を欲していた。桜はすかさず昼食の準備に取り掛かる。
スクールバッグを持ち上げ中を確認しようとしたとき、桜の元へ後ろからアカネが来た。
「ハイ。おつかれさん」
「お疲れですぅ」
桜と違いアカネの表情はいつも通りである。最も、大いに疲れを顕にしている方が教室の中ではマイノリティであるが。
「おいおい、先週に授業始まったばっかだぞ?」
「数字だけは勘弁して下さい・・・」
「こんな早くにへこたれたら大変になるぞー」
「その為のアカネちゃんです・・・」
「おい」
アカネは話を切りかえた。
「今日はさ、裏庭で食わない? あそこ静かで落ち着くんだよね」
「食欲を満たせるなら何処にでも〜」
桜は弁当をバッグの中から詮索していたが、今日は持って来なかったことを思い出した。弁当は毎日母特製の手作りだったが、珍しく今朝はお母さんが寝坊していた為に何も持ってきていなかった。調度良いので途中食堂に寄って昼食を買っていくことにする。
椅子から立ち上がり、二人は一緒に動き出そうとした矢先、一人の男子がアカネに恐る恐る話しかけてきた。
「あのー鳥居、さん? 昨日のプリント出てないんですけど・・・?」
この前学級委員に名乗り出ていた人だ。そういえば先の授業を締めくくった人でもあった。
「あーすいません。これですよね」
自分の席にあるバッグからプリントを取り出して見せる。しかし男子は首を小さく横に振った。
「いえ、それではなくもう一つの・・・」
「あーてことはこれかな」
「はい。こっちですね───こっち・・・ですけど、あの」
「ん?」
「な、何も書かれてないです」
アカネはポカンとした。完全にやったつもりでいたようだ。
一連のやり取りを見ていた桜はクスッと笑った。
「なんじゃい桜さん」
「いや、一長一短! お互い様ですね!」
「ドヤ顔で言うんじゃない」
アカネはすぐ様自分の席に戻る。
「待って。今やるから! という訳で桜、すまん。先行っててくれ」
「分かりました」
場所を確保しておくことになった。
桜はバックから取り出したがま口財布を携え教室を出た。
この学校の食堂はいわゆるコスパが非常に良く、栄養も良く考えられているのでいつも盛況している。
ここで昼食をとってもいいが、アカネはどちらかと言うと静かな雰囲気を好むので良く合わせてあげている。と言いつつ、そういった場所は長閑で心地よい場所が多いので桜も満更でもない。
食堂を通り過ぎ隣にある購買でたまごサンドと鮭のおにぎり、いちごオレを買った。
お釣りをがま口に仕舞い、さぁ向かおうと後ろを振り向いた瞬間、「キキィィイ!」という音が飛び込んできた。
「桜さーん。やっほー」
あのブレーキ音はやはり枝垂れ先輩であった。
「こんちには。枝垂れ先輩は食堂に?」
「ん? あー特に用事は無いよ。あっちから桜さんが見えたから」
「な、なるほど」
だからと言ってダッシュしてくることも無いと思うが。
枝垂れ先輩とは部室でしか会うことが無かったので少し新鮮に思えてくる。だとしたら先の行動も恐らくお互い様だったのだろう。
せっかくなので桜は話を切り出した。
「この前の神社、あれ以来見ることが出来ないんですよね」
「あーあれ。もう二週間以上は経つけどね」
「神出鬼没というか気まぐれというか・・・」
入学式当日、翌日、翌々日の三日間の出会いであった。
「そっか。まぁまたひょこっと出てくるよ」
「そうですね〜」
また現れた時、再び誰かと出会うのだろうか。桜はそれに思いを馳せ楽しみにしていた。そこから更に話を続けよう口を開きかけた時、枝垂れ先輩の視線がこちらの後ろへ逸れていたことに気が付いた。同時に柔らかかった表情が徐々に暗さを帯びてきたことも分かった。
「香緒里・・・」
振り向くとそこには立花香緒里が立っていた。
「割り込むつもりは無かったんだけど」
手には何かの紙を携えていた。
「いいよ、別に。それよりど、どうしたの?」
「この前渡しそびれた、これ」
そう言って香緒里は枝垂れ先輩にその紙を手渡した。
「こ、これ!」
その紙には香緒里の名前や部活動名、そして上部に一番大きい字で「退部届」と書かれていた。
「──分かった」
「短い間のようだったけど、お世話になったわ」
そう言うと、香緒里は目的を達成しやり終えた様子で帰って行こうとした。
「待ってください!」
桜はとっさに香緒里を引き止めた。
「・・・」
香緒里は足を止めた。
「辞めて、しまわれるのですか?」
香緒里は無言のまま、片目だけこちらに視線を合わせる様に振り向いた。
「文化部はこれから楽しくなります。い、今一度お考えを改めて──」
「いい加減にしなよ」
香緒里はフッと笑い、急に目が鋭くなった。
「少しやっただけの部活と少し会っただけの先輩の、なんなの貴女は?」
「わ、私は・・・」
正論だ。二人の間に何があったのか、過去の文化部はどんな様子だったのか、桜には知らない事が多々あった。
桜はその返答に戸惑いを隠せないでいた。しかし香緒里は続ける。
「意味わかんない。何処の馬の骨かも分からない新入生に、私と
「しかし、枝垂れ先輩も・・・」
「私ね、貴女みたいな理想論者は本当に嫌いなの。考え無しに適当なこと言っていつも良い人ぶる。それにいつもそういう時に限って──」
「香緒里やめて」
枝垂れ先輩が少々震わした声で、遮るように横槍を入れた。
「分かったから。ちゃんと先生に渡しておくから・・・今まであり──ごめんね」
枝垂れ先輩の表情は感情を噛み締めぎこちない笑みを見せていた。
その言葉に納得したのか、香緒里は冷静さを取り戻し無言のまま去っていった。枝垂れ先輩はキョトンとしていた桜に声をかけた。
「ごめんね、桜さん。あの子もそこまで思ってないと思うから。気にしないで」
桜は何も返すことが出来なかった。だが一瞬だけ桜の目には、涙腺を緩ませる枝垂れ先輩の瞳が映りこんだ。
〜〜〜〜〜
静かで気持ちが良い
に囲まれながら、校内で話題のたまごサンドを嗜もうとしていたはずなのに、今は何か喉の奥でつっかえているものがあった。
「はぁ・・・失敗しました」
桜は思わず大きなため息が出てしまった。
浅はかだった。確かにあの二人は三年生で、自分は一年生。話に入れる余地など無いに等しかった。そこへ無理矢理入ってしまったが為に枝垂れ先輩も傷つけてしまった。考えれば考えるほど反省点が見つかってしまう。
桜は黙々と機械的に食べ物を口へ運んでいた。
この地域ではたまごサンドが至る所で人気のようなので、せっかくだからと前の喫茶店の味と比べようと楽しみにして買った。しかし今はそういった余裕も無く、ただ辺りをボーッと見渡しながら静かに食事をしていた。
風が吹く度に木々がざわめく音がする。
この庭は学校の裏手にあり、広場の中心にしだれ桜がメインとして佇んでいる。現在は葉に満ちているが、満開の時期には校内有数のデートスポットに早変わりするらしい。桜の座っているベンチは幹の周りを外向きで囲うようにして三基設置してある。
次いで、辺りには様々な花、草木が植えられている。
正門とは逆に位置しているが環境の管理はしっかりされている様だ。花壇は先程手入れをしたかのように綺麗にされ、ゴミなどは見渡す限り一つも無い。
この場所は前から幾度か来ているが、穴場というのだろうか。今日も誰も来ていない。
「まだまだ精進するべきなのでしょうね──」
「どうしたの?」
「きゃぁッ!」
独り言を漏らした矢先、何の前ぶりも気配も無く、何者かが突如として桜に声をかけてきた。
全く身に覚えのない声だ。しかもその声には何か幼さを感じる。
桜はとりあえず後ろに振り向いた。
「えっと、どちらさ───あれ?」
そこには誰も居なかった。まるで先の声がただの風音だったかのように何者の姿も見えなかった。
「んー? おかしいですね。確かに後ろから──」
「お姉ちゃん、あたしの声が聞こえるの?」
「わっ!」
先の声の主は、今度は目の前に居た。気配の一つもなく。桜はまたも驚いて仰け反ってしまった。
そこに居たのは短い着物にフリルが付いた可愛らしい格好の、小学校低学年生ほどの女の子だ。不思議そうな眼差しでこちらに身を乗り出している。髪型はふわっとした短いツインテール、そして月や星のデザインで出来た簪をしている。最近の子供の間ではファッションに昔のテイストを混ぜ込むことが流行りなのだろうか。
「こ、子供!? どうしてここに?」
「お姉ちゃん、誰? 名前は?」
「えっ私?」
無邪気な子というのはその通り邪気が無いだけで無く、遠慮もまた無い様だ。
「私は咲花桜です」
「さきばらさくら?」
「さきばなさくらです」
「分かったの。くらお姉ちゃん!」
「区切るのそこですか」
桜は名前のことを一旦諦めた。それよりもこの子についてしっかり聞かなくてはならない。
「君のお名前は?」
「あたしは
桜はふといつぞやの神社での出来事を思い出した。古い格好もしている。まさか、この娘も普通の子供ではないのか? だとしたらまさかのまさか・・・。
「消えちゃう!?」
「え、なにそれ」
いや違う違う、そうではなく、まずこの娘の身元を確認しなければ。
「えっと、座敷子ちゃんはどこから来たんですか?」
「お家だよ」
そりゃそうだ。
「ごめんね、こっちにしましょう。お父さんかお母さんはどちらに?」
「わかんない」
「分かんない?」
「誰もお話聞いてくれないから、ずっとここに居るの」
座敷子はしょんぼりとした。どの程度かは謎だが両親のことが分からないとは何かおかしい。
桜はハッと気が付いた。もしかしたらこの子はいわゆる「座敷わらし」なのかも知れない。
「座敷わらし」とは主に東北地方に伝わる子供の姿をした神様である。また、精霊的存在ともされ出会った人には幸福が訪れると言われる。
有名な話では、知らぬ間に現れ子供達と遊んでおり、後から人数を数えると最初のメンバーから一人増え、最後にはその一人が居なくなる。そしてその存在が誰だったのか大人も子供でさえも分からないという事象だ。そういった時に人々は座敷わらしが混じっていたとしてきた。
明らかな伝説ではあるが、依然も子供が消えてしまったのだ。超自然のような存在の一つや二つくらい見ることもあるだろう。
座敷子は話を続けた。
「ただお話がしたいのに、お遊びもしたいのに、誰も・・・聞いてくれない」
涙目を浮かべ今にも泣き出しそうな顔を見せた。
桜は慌てて声をかける。
「大丈夫ですよ。私がお友達ですから」
「ほ、ほんと?!」
「もちろんです。いっぱいお話していっぱい遊びましょう」
その言葉に座敷子は表情を一変させた。
「友、達・・・!」
座敷子の感情は一息に昂り出した。
「ずっと、寂しかった・・・」
涙腺が崩れ、握った両手で目元を抑えた。
広場にしゃくりをあげた泣き声が響いた。
静寂な空間に、もくもくと空を覆う曇りの天気。
桜はそっと、座敷子の額に手を乗せた。
「よく頑張りましたね。いい子いい子です」
その言葉と共に、座敷子の泣き顔は徐々に落ち着きを取り戻して行った。そして子供らしく、無邪気で無垢な笑顔を見せた。
その後、少しの間座敷子は桜と一緒に戯れていた。だがその最中、座敷子は何かを思い出したかのように切り上げた。
「帰らなくちゃ」
「あら、そうですか」
「ありがとう。さくらお姉ちゃん。またね」
「はい。また」
そう言うと座敷子は瞬く間に姿を消した。先と同じだ。
「い、居ない・・・」
まるで今の今まで存在していなかったかのようだ。
桜はベンチに戻り、いつの間にか香緒里とのトラブルで落ち込んでいたことも忘れていたことに気が付いた。そしてそれを思い出した今、素直にそれを受け入れることが出来た。
子供と触れ合うと、まるで純粋な心をおすそ分けしてもらったかのようだ。
「またね、ですか・・・また会ってくれるんですね」
なんだかまたお腹が空いてしまった。桜は途中で仕舞った昼食を再開することにした。
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