第3話 言葉は心の表層を撫でて―what is true love―

校庭の木々が紅く染め上げられる季節になって、悪罵には慣れたつもりでいた。

開け放たれた窓からは冷たい風とともに、悪意が流れ込んでくる。

いくら無感情を意識しても、心の奥底では多少の傷が生まれる。

既に塞がったかさぶたが薄く剥がれるように、僅かな痛みが。


「どうして女が好きな人がこの教室にいるのー?」

底意地の悪い女どもが私を見て嗤う。

余りにも滑稽なその姿に、こちらが笑いたくなってくる衝動を抑え、時計を眺める。

遅々として進まない秒針にため息を吐き、教科書を開く。 

文字ばかりの数式なんて目に入らない。

噂ばかりが私の耳には届き、頭を埋め尽くす。

一ヶ月前、私が同性の彼女と居るところを有象無象に目撃されて、後は想像通り飯の種。

私のことを知りもしない癖に、偏見と差別の目で私を射ぬく。

どうして、私がこんな目に。

段々と鬱屈とする思考を、どこまでも明るい声が現実に呼び戻す。


「おーい!一緒にごはん食べよ」

がたの来た扉の前に、一人の女子が立っている。

私より一年年上の癖に、ぶんぶん手を振っているのが何とも無邪気で、つい表情が緩む。

周りの声がより一層煩くなってきたけど、私の聴覚には届かない。

所詮、有象無象が向けてくる剥き出しの悪意なんて、表面を滑り落ちるだけの言葉だ。


「迎えに来て頂いて申し訳ありません、三枝先輩」

「いーのいーの、わたしが好きでやってることだからね」

ふわり、としか形容のできない穏やかな笑みは、私にだけ向けられて。

二人並んで、悪意に満ちた伏魔殿から出ていった。


廊下を二人並んで歩いても、他の生徒から好奇の目線で見られるのは日常茶飯事だ。

どこを見ても、私たちに向けられる視線なんて嘲るようなものばかり。

皆あからさまに声をかけたりはしないけど、その代償が一連の悪意だとすると、内心複雑だ。

どこを歩いても、理由無き悪目立ちはつきまとう。

さながら、私の後ろに伸びる影のように。

引き離すことも、引き剥がすこともできない永遠性。

それを意識すると冷たくなってきた風が絶対零度に到達して、私を容赦なく突き刺す。


「最近は寒くなってきましたね」

「わたしがマフラー編んであげよっか」

「え、先輩マフラー編めるんですか」

誤魔化すように視線を反らしたのはご愛嬌だ。もちろん、先輩が。

そもそも実技教科壊滅の先輩に手編みなんてどだい間違ってる。

私が先輩に求めるのは、そこじゃない。

そりゃ物を貰うのも嬉しいけれど、一番は私を受け止めてくれることだ。

傷ついたときには癒しを。

自信が無いときには勇気を。


「今日も購買ですか、先輩」

「んー。パン美味しいじゃん?」

「美味しいですけど………。栄養には良くないですよ」

「わたしのお母さんみたいなこと言うんだね、君」

「お母さんって……。私の方が年下ですよ」

「時々、年齢詐称してないかなーって思うときがあるよ」

「先輩が年上の割に子供っぽいだけですって」

しばらく階段を上り下りしてたどり着いたのは、誰もいない教室。

荷物置き場くらいにしか先生も思ってないんじゃなかろうかというそこは、

酷く埃っぽくて、くしゃみが出る。

ここが唯一私たちに許された居場所。

誰の悪意も敵意も害意もやってこない私たちだけの聖域。

ギシギシと軋む椅子に座って、お弁当を広げる。


「今日も大変だったみたいだね、苺花」

三枝先輩は、笑顔を消して真剣そのものの表情を作った。

水晶玉のような輝きを放つ瞳も、今はくすんだガラス玉くらいに光を失っている。

純粋に私を心配してくれているんだと思うとすごくうれしかった。


「……もう慣れましたよ。毎日毎日聞いていれば」

「しばらく、会うのよそうか」

「先輩………。そんな事言わないで下さいよ。

先輩と会えない方が、よっぽど寂しいし、辛いです」

「ごめん。そもそも皆にバレたのも、わたしのせいだし。

先輩なのに……君に何もしてあげられない」


肩を落として、憔悴しきった様子に、私まで伝わってくるようで、胸が苦しくなる。

気付けば、私は先輩の制服の袖を掴んでいた。

きつくシワができる程に、強く。


「先輩。私は、先輩が居てくれるだけで十分なんです」

どんな茨の道も、あなたとなら。

先輩は、私の髪を撫でた。

どこまでも優しい指使いによって、髪を通して先輩の優しさが流れ込む。


「時間もありませんし、ご飯食べちゃいましょう」

箸で野菜を掴み、口に運ぶ。

当然だけど、こんな状況下で味が解るはずも無く。

先輩も購買で買ったパンをもそもそやり始めた。

二人でご飯を食べるときは、会話は極力しないようにしている。

言葉では無く、側にいる息遣い、温度を共有するために。

ただ、隣にいる時間を大切に。

どうして、あなたが女というだけで、こんな隠れるようにしなければならないのか。

そこに在るのに無い、影のような存在でいなければならないのか。

無感動に昼食を消化するのとは別に、私は思い返していた。

細やかな平和なひとときが、崩壊した瞬間を。

そして、すべてが再生した瞬間を。



その日は、激しい雷雨の日だった。

どこか遠くで雷鳴を轟かせている雷様を尻目に、私は一人で廊下を歩いた。

流石に二人で行動すると誤解を生みかねない(誤解でも何でもないのは事実)ので、

集合場所のみを決めて合流することにしている。

今日も、教室の扉を開ける。

先輩は、もう座っていた。

入ってきた私の姿を認めると、ぱあっと顔が明るくなる。

彼女が私の恋人、三枝樹先輩。

「遅くなってすみません、先輩。授業が長引いてしまって」

慌てて足早に駆け寄る。そうしなければならない気がした。


「気にしないで、苺花。わたしは君を待っているのが好きだから」

どうして?と私は視線で問いかける。

「だって、君が来てくれると解っているから、心がドキドキするの」

「私も。早く先輩に会いたかった」

「じゃ、食べよっか」

先輩はいつも通り、購買で買ったパンを取り出す。

今日はジャムパンらしい。


「先輩、いつもここでご飯食べてますけど、友達とかに怪しまれないです?」

先輩は困ったように笑う。

「実は、友達いないんだよね」

「?」

意味が解らない。首を傾げる。

「だから、わたしに友達はいないの!」

余りにも残念な告白に、私は絶句した。

先輩は顔を朱に染めて、目なんか涙目で、端から見れば私が虐めたみたいだった。

…………とはいえ、ここには誰もいないんだけど。


「苺花、実はSなんだね」

「失礼な。でも、多少解る気がしますよ」

先輩は、誰もが認める美貌の持ち主だ。

躍動感のある黒髪、整った目鼻立ち。

若干顔のパーツがきつめだから、逆に近寄り難い雰囲気を醸し出し、孤高って感じがする。

学校生活において私と先輩が会える時間は限られていて、登下校の時や昼食の時だけだ。

一歳年が離れているだけで、その距離は無限に感じられて、私には追い付けなくて。


「先輩が先輩じゃなかったら、どれだけ良かったか」

「何それ。君も後輩じゃなかったら良かったのに」

文句を言っても何の意味も見出だせないけど、こうやって話せる時間がいとおしい。

黙って私が感傷に浸っていると、どこかで雷が落ちた。

ドガン!!と物凄い音がして、窓の向こうが閃光に包まれる。

落雷の音は、世界から音を消し去った。


「普通、きゃー怖いーって言うところなんじゃない?」

悪戯っぽい表情で先輩がそう言うので、私は応えてあげた。

「きゃー怖いー」

「棒読みじゃん」

今度は不機嫌そうに唇を尖らせる。

やっぱり良く解らない。

ころころ表情が変わるひとだな、と心の中で呟く。

ああ、こんな他愛ない日々が。いつまでも。続けばいいのに―。

しかし、いつだって現実は人を傷つける。

これだって、きっと神様の気まぐれで、いつかは夢から醒める−−−−−。

そして、崩壊が訪れる。


「……何、してんの」

空気が、凍る音がした。

身体が熱を帯びて、視界が白く染まる。

たまたま扉を開けたのは、先輩と同じ二年生だった。

弁当を抱えた女子生徒は、私たちの間に流れる空気とか、そういったものを察したらしく、


「………へぇ。三枝さんって、そういう人だったんだ」

そういう人ってどういう人だ。


「邪魔したみたいだからね、帰るわ」

最終通告。友達に別れを告げるような口調で、最終通告をされた。

違う。私たちは、そんなんじゃ−−−−−−−。

手を伸ばす暇もなく、扉が閉ざされる。

まるで世界からの断絶が起こったかのように、ドア1枚の距離は絶望的だった。

「…これ、まずいですよ」

知らず知らずの内に、私の声は震えていたらしかった。

さっきの目撃者は女子だった。

女子がすることなんて、悪口か噂話と相場が決まっていて、ましてや超情報化社会に

突入した今のご時世全世界に広まってもおかしくはない。

いつしか、目の前は闇に覆われていた。

どこを見回しても、先の見えない虚無。

悪罵の声と嘲笑のみが響き、私はうずくまる−−−−−−−−。

理解してしまった。バレてはならないこの関係は、薄氷の上に逆立ちで立つような

不安定な、脆いもので。

その薄氷をも、踏んで砕き、地に落ちてしまったこと。


「あーあ、バレたね」

こんな状況になって笑ってるこの人が理解できない。

あなたは、どこまで−−−−−能天気なのか。

私は、未来に絶望しているというのに―。


「先輩は、どうして平然としていられるんですか」

「だって、ねえ。君と付き合っているのは事実だし、隠す方が変でしょ」

「でも、私たちは―」

先輩は私の言葉を先回りした。


「……………女の子同士、ってこと?」

心がひやりとした。いつも優しい光をたたえた瞳は、今その光を失っているから。


「性別なんて関係ない。少なくともわたしはそう思ってる。

君は嫌?わたしと付き合うの」

迂闊に言葉を発することはできなかった。

何かを言おうとして、言わなきゃいけない気がして、それでも言葉が見つからなくて。


「何かあっても、わたしが守ってあげるから。君の先輩だからね、わたし」

「……ありがとうございます」

その自信に溢れた顔を見たら、何も言えないと思った。


その後から、地獄が始まった。

聞きたくもない罵倒の数々。侮蔑的な嘲笑。徹底した差別。

思いだしたくもないのでここでは割愛させていただくが。

人の噂は75日。そんな言葉を作ったやつは頭がおかしいのだろうか?

一向に止まない偏見と差別の嵐の中心に、私と先輩はいるというのに。

私の前で先輩はいつも明るく、気丈に振る舞っているのはいつものことで、だから―

もっと速く、様子の変化に気づいておくべきだったのかもしれない。

2週間前。全身に傷を負って家に帰り着いた私は、何気なしに先輩に電話した。

待機音が数秒、出た。


『………もしもし。苺花』

「はい、私です」

『わざわざ電話してくれたんだ。ありがとう。今まで、本当に、ありがとう』

遅れて、私は気づいた。

先輩の声音がいつもとは異なることに。

どこか暗く沈んで、凛として澄んだ声ではない。

「……………どうしたんですか、先輩」

『あー。解る?流石だなあ、苺花。敵わないよ。だから好きなんだけど。

でも、これ以上君に迷惑はかけられない。わたしは君の先輩でいる資格なんてない………』

どうして、そういう結論になったのか。

何で、そんなことを言うのか。

何も知らない私には、解らない―。


『別れて、とは言わない。君のこと大好きだから。でも、わたしはいなくなるよ。

君の側から。もしかしたら、この世界から…………………』


「え、先輩?何馬鹿なこと言ってるんです。冗談でも許しませんよ」


『ああ、それでいいのかもしれない。君が、わたしを嫌いになるのなら。

今まで本当にありがとう。苺花、愛してる』


いつかまた、どこかで…………。最後の言葉は聴覚には届かない。

先輩の言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。

先輩がいなくなる―。

その言葉は私の心の奥底を掻き乱す。

今まで心の表面で止まっていた言葉が、先輩の言葉が、隙間から入ってくる………


好きだよ、と言ってくれたこと。

ありがとう、と言ったこと。

私の冗談で先輩が笑った声。

何気ないおはよう、こんにちは、さようなら…………。

それが何でもないことなんかじゃなくて、かけがえのないものだって。

私は気づかなかった。ただ、日常の一つとして消化していた。

失って、初めて大切なことに気づく。

ありふれた言葉が、真実だったことを悟る。

今までたくさんの人と出会い、別れてきたけど。

先輩とだけは、別れたくないと思った。

もし、先輩が自分の手で人生の幕を降ろそうとしているなら。

止めないと。今ならまだ間に合う。

狂ったように輝く太陽が、今は眩しく感じられた。



初めて人を好きになったのは、君―苺花が初めて。

その声、仕草、顔、性格、すべてがいとおしい。

でも、わたしのせいで君を傷つけた。

有象無象の差別や悪意によって。

日に日に弱っていく苺花に、わたしは何もできない。

わたしは先輩で、本当なら君を守ってあげなくちゃいけないのに。

何もできなくて、そんな自分が嫌になって。

決定的だったのは母の一言だった。


『あんた、女の子と付き合ってるんだって?そんな馬鹿なこと、止めなさい』


あの人は、苺花を馬鹿にした。有象無象と同じように。

わたしを馬鹿にするだけなら、耐えられる。

苺花を馬鹿にすることだけは、許せない。

もし、わたしがいることで苺花に迷惑がかかるというのなら、

この世から跡形もなく消え失せるのは、苺花のためにできる唯一のことだ。


そして、わたしは橋の上にいる。

だいぶ高い。下を覗き込みたくもない。

車が走っている。

ここから飛び降りればどうなるか、簡単だ。

わたしは死ぬ。死んで、生まれ変わってまた、苺花と。

さあ、この世からお別れだ。


―ありがとう

―大好きだよ

―さようなら


そんなありふれた言葉じゃ足りないけど、もう終わりだ。

さようなら、苺花。

欄干から身を乗り出す―そうとして、誰かに止められた。

ぐいっ、と細い身体のどこにそんな力があるのか不思議だけど、結果的にわたしは。

こちらに引き戻された。

彼女の顔を見る。

あり得ない。君が―苺花がここにいるなんて。


「何で…………?」

死なせてくれなかったのか。

引き止めたのか。


「馬鹿言ってんじゃないですよ!!」

「……え」

「私は、あなたが、先輩がいるから毎日生きていられるんです!!

先輩がいなくなったら、私に何が残るんですか?

先輩がいなくなって私が幸せになると思いましたか?馬鹿ですよね。

そんなこと思うはずが無いでしょう!

こんなにも、私はあなたを好きなのに!」


言葉は刃物。誰かがそう言った。

その通りだ。激情のままに発された言葉はわたしの心に突き刺さる。

でも、こんなにも温かく、優しい刃は初めてで。


「本当に?わたし、君の側にいて良いの?」

やっと苺花は笑って、

「当たり前じゃないですか。むしろずっと居てくれないと困ります」

「君に、何もできないわたしでも?また傷つけるかもしれないよ?」

「先輩なら、大丈夫です」

「一つ聞いてもいい?」

「何ですか」

「どうして、ここが解ったの」

ああ、そんな簡単なことですか、と苺花が笑う。

「ここで、私たちは恋人になったんですよ?忘れるはず、ないでしょう」

そうなんだ。

無意識に、わたしは苺花に止めて欲しいと思ってたんだ。

不意に、記憶が呼び起こされる。

真紅に輝く空の下、わたしは苺花を呼び出して。

好き、と言った。

苺花はわたしに応えてくれた。

二人で、手を繋いで。

歩いていった。


「大好き。ずっと、側にいて」

「私もです」

抱き合う。固く抱き締めて、離さない。

暖かい。この温度は何物にも変え難く、変えたくない。

未だに未来は不定形で、茨の道で、救いも、希望もなくて。


それでもいいや、と思った。

誰が何を言っても、大した意味は無いんだって。


―先輩の。


―苺花の。


声しか、心には響かない。


その日、私と先輩は本当の恋人になった。

もし先輩が茨の向こうにいくのなら、私は腕が引きちぎれても、

茨の向こうに手を伸ばして。引き戻す。

悩んでいたら、励ます。

陰っていたら、照らしてあげる。

この人となら、どんな道でも明るい。

幸せってこういうことを言うんだろうな。

形の見えないものに、恋してる。



すべてを思い返し終わると、昼食は終わっていた。

あれからまた少し時間が経った。

未だに偏見は消えない。

でも、まあどうでもいいか。

先輩が居てくれるから。

隣を見れば、いつだって。



苺花。わたしの愛する人。

少しでも、優しくなりたい。

彼女のために。

そして言葉で、ありったけの感謝を伝えたい。

苺花の、心の奥底に。

まだ後悔は消えない。わたしのせいだから、仕方ない。

その罪を背負って、生きていく。苺花と共に。

いつまでも。この世から去る、その時まで。

この気持ちが、本当の恋なのかな。

罪悪感が消える日は永久に訪れない。

だから毎日、苺花に許してもらえばいい。

彼女がいてくれれば、何だってできる。

共に歩む未来を、夢見てる。

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