6章ー23:自傷する心と、救いの言葉
ぐっすり寝れると思っていた舞子であったが、この日もまたミズチの夢を見て跳ね起きた。
「うわあぁぁっ! はあ、はあ、はあ……またこの夢ですか」
舞子は暗い客間の寝台で、1人膝を抱える。
エマボットが部屋を消灯させていたおかげで、机に上にある時計の表示がよく見えた。
いつもより早めに寝たため、時刻は深夜を回った3時頃である。
5時間ほどはぐっすり寝たが、その後は眠りの質が下がり、夢を見てしまったらしい。
「簡単に心的外傷が癒えたら、精神科医とかいりませんものね? ふぅー……あーもうっ!」
頭を抱える舞子。
苛立ちと動揺、怖れと怯え。渦巻く感情に翻弄され、舞子の心が不安定に揺れた。
どうしたらいいのか、どうしたいのか、どうすべきか。
色々と考えるものの答えは出ず、涙ばかりが舞子の頬を伝った。
感情が
命彦に至っては病み上がりであるし、そもそも部屋には怖い2人がいる。魅絃も同じ部屋だった。
「……命彦さん」
舞子は、無性に命彦と会って話がしたかった。
初めて会って助けられた時から、舞子にとって命彦は、戦う魔法士としての目指すべき手本である。
だからこそ、今この時に助言が欲しかった。
命彦であれば、今の自分と同じ状態の時どうするのか。それが無性に知りたかった。
しかし、命彦は昏睡状態から目覚めたばかりの、病み上がり。
深夜に相談しに行くことは当然の如くはばかられるし、勿論傍に控えているであろう、ミサヤや命絃も怖かった。
「メイアさんや勇子さんだったら、まだ起きてるかも」
旅館のように広い神樹邸の、月明かりが照らす暗い廊下に出ると、メイアと勇子の客間はすぐに見付かった。
舞子の客間の隣室から、勇子のいびきが聞こえたからである。
隣室の客間をそろりと覗くと、勇子が女子にあるまじき姿で、腹筋の割れた腹をぼりぼりと手でひっかいて、浴衣姿で気持ちよさそうにスピーと寝ていた。
勇子の眠る客間を出て、その隣の客間も覗いてみると、こちらはメイアが寝ていた。
メイアも勇子と同様、浴衣姿ですやすやと眠っている。どちらも快眠状態であった。
これを叩き起こす勇気は持ち合わせておらず、舞子は客間の扉を閉めて、廊下の窓際にもたれた。
3日前に舞子と同じくミズチ戦を経験した筈だが、それを全く感じさせずに2人は寝ている。
日常生活においてもこの3日間、2人はごく普通に自然体であった。
心的外傷を負い、不眠症に苦しむ舞子とはまるで違う。
窓に映るやつれた自分と、対照的である2人の様子を目にして、舞子は苦しげに笑った。
「私と同じ経験をしても、メイアさんや勇子さんは暢気に寝てる。あれだけの目に遭って、危うく死にかけたのに。ふふふ、あははは……死んだ筈のミズチを3日間も夢に見る私とは、器が違いますね? 所詮私は、凡人です」
客間で拭った筈の涙がまた頬を伝った。今はただ悔しかった。
終わった筈のことにいつまでも怯え、引きずる自分の弱い心が嫌だった。
同世代で自分以上の力と心を持つ者達が、ただただ羨ましかった。
漠然と夢に見ていた、歌って踊って戦える〔魔法楽士〕という己の理想像。
それがどれほど遠く、険しい道のりか。
舞子は今、ミズチを通して思い知らされていたのである。
戦いというものはこれほど怖いのか。命がかかっているということは、これほど自分を苦悩させ、追い詰めるのか。舞子はその事実を改めて知り、怯えていた。
自分ではどうにもできぬ圧倒的上位者と対峙し、簡単に自分が消し飛ばされる現実を思い知らされて、舞子の心は激しく動揺し、震える。
一途に夢へ
「私は、歌って踊れて……戦える〔魔法楽士〕を目指す者。いつか【精霊歌姫】を超えたいと思ってる私が、この程度で止まるわけには……」
口では幾らでも勇ましく言えるが、いざまた迷宮に行くことを思うと、身体が勝手に震え出した。
舞子の心は今、心的外傷をきっかけに、自縄自縛の状態にあったのである。
勇子やメイアと修了した魔法学科が違うことも、それまで迷宮に出入りし、蓄積した経験や技術に差があることも、この時の舞子にはまるで見えておらず、自分だけが怯えていることに囚われて、自分自身の弱い心をひたすら嫌っていた。
それが結果として、舞子自身の心を追い込み、どんどん自分の思考の幅を奪って、自らを無意味に
「……くっ!」
脳裏にちらつく魔竜の幻影に怯え、舞子は震え続ける自分の身体を抱き締めた。
落ち着こうと必死に自己分析する舞子。口に出して、自分の思考を整理しようと試みる。
「敵性型魔獣を自分で倒し、目標だった歌って踊れて戦える〔魔法楽士〕に、少しは近付けた気がした。でも……私は命のやり取りをするということの、本当の怖さを知らずにいた。そう、あのミズチに遭遇するまでは」
高位の魔獣。人類が恐れ、学科魔法士でさえも恐れる、高位の敵性型魔獣に遭遇し、自分の無力さを思い知らされて、舞子の心は死への恐れに染まっていた。
命彦達との実戦経験から生まれつつあった、魔獣と戦えるという自信と思い上がりを、
「迷宮では、命を奪う側が、容易く奪われる側にも転落する。分かっていたつもりでした。けれど、本当の意味でそれを理解したのは、あの魔竜に遭ってからだった。結局私は、どこかで思い上がっていたんですね」
舞子の言葉には、重い実感が籠っていた。
叩き付けられる魔竜の威圧感は勝手に動悸を早め、人外の魔力の波動が神経を焼き、濃密極まる殺気が喉を締め上げる。
己が死ぬ未来を脳が自動的に想像し、心に芽吹いた死への恐れが足を竦ませ、一瞬で膝を屈させる。
ミズチと視線が合った瞬間、舞子は震えることしかできず、考える余裕は皆無であった。
戦おうとする意志も微塵に霧散し、どうすることもできず、座り込まされたのである。
命彦達が傍にいたからこそ、指示してくれたからこそ、立ち上がって動くことが可能だった。
しかしその命彦達が傍にいても、結局最後まで、舞子の戦意は霧散したままだったのである。
命彦達のように魔竜に抗おう、戦おうとする意志を、舞子は持てずにいた。
それが許せず、はずかしく思い、舞子は己に言う。
「ホント、弱い心……私の掲げる目標がどれほど遠いものか、魔獣と戦うということがどれだけ恐ろしいのか。そして自分が気付かずにいた現実がどれほど重いものかを、私はやっと思い知った」
命彦達と初めて迷宮に潜った日の帰り道で、舞子を見下し、馬鹿にした【ヴァルキリー】小隊。
現実を知る彼女達に言われた言葉が不意に、耳へ、脳裏へと木霊する。
夢を捨てろ、身の程知らずめ、と。
「うるさいですよ、私はっ! 私は……」
夢を見続け、怖いもの知らずだった過去の自分の愚かさを思い出し、心身に深く刻み込まれた死への恐れを処理できず、舞子の心は、この時激しく軋んでいた。
自分で自分の心を傷付けることで、心が怯え、竦み、そしてじわじわと、確実に壊れつつあったのである。
舞子が悔しげに唇を噛んで言った。
「……空回ってばかりですね、私は。依頼所に迷惑をかけ、学校に迷惑をかけ、周囲の人達にも迷惑をかけている。私が一生懸命に夢を追う度、どこかに、誰かに、迷惑をかけている。ホント馬鹿みたい」
壊れかけた舞子の心は、全てを自分の責任のように背負い込み、自らを一層追い詰めた。
もはや目も虚ろである舞子が、自嘲気味にまた口を開く。
「〔魔法楽士〕の学科魔法士資格を取るまでは良かったんですよ。6年かかる筈の学習課程を、同じ夢を持つ親しい友人達と切磋琢磨し、3年で修了しました。周りに
いつの間にか舞子は、危うげに渇いた笑みを浮かべていた。
「けれど失敗した。学科魔法士資格を手に入れ、図に乗って依頼所に駆け込み、登録して、自分達の能力以上の依頼を受けてしまった。その結果、友人達と一緒に死にかけて、命彦さんに救われた」
壁にもたれてずりずりとしゃがみ込み、舞子は自分へ語り続ける。
「本当はこの時点で現実に気付くべきだったんです。でも私は見てしまった、命彦さんを。あの人が魔獣達を1人で相手取り、戦うその姿を……。この人に付いて行けば、私も魔獣と戦う力を手に入れられる、夢に近付けると……そう思ってしまった。本当に馬鹿ですね、私は」
天井を見上げ、己を痛めつける言葉を、舞子はまた吐き出した。
「依頼を失敗して死にかけたことが家や学校にも伝わり、家族を心配させて、学校の評判まで落としてしまった。見返そうと思っていた人達に一層馬鹿にされ、これまで積み上げた周囲の評価も、失墜させてしまった……う、ううっ!」
座り込んでいた舞子が肩を震わせ、顔を手で覆った。
「どうにか挽回したくて、力を付けたくて、魔獣と必死に戦ったら、自分が奪った命に怯えて、皆の前で嘔吐し、恥をかいた! 小隊の皆さんに気を遣われるのが嫌で、早く認めてもらいたくて、迷宮に付いて行ったら、今度は魔竜に遭遇して自分が心に傷を追い、より一層気を遣われた挙句、最後は魔獣と戦うことまで怖がる始末!」
震える自分の手を見詰め、
「今や夢を追うことすら躊躇い始めている自分がいる。そう……全部自分で招いたことですっ! 夢を現実にしようと行動する度に、人に迷惑をかけ、夢から遠ざかった。追い求めた自分の理想像から離れて行った。掴みかけていた筈の夢が遠い……本当に遠いです」
しくしくと舞子は泣いていた。嗚咽を堪えようと、必死に我慢を続ける。
本当は声を上げて思い切り泣くのが精神的に一番良いのだが、僅かに残る自尊心がそれを邪魔をした。
自分の夢を馬鹿にされる度に跳ね返し続け、磨き抜かれた負けん気が、裏目に出てしまったのである。
これまでの魔法士育成学校での生活でも、相当苦しい想いを溜め込んでいたのだろう。
感情の制御ができず、必死に我慢しているのに、涙は延々と続いた。
ようやく涙を止めて、ヨロヨロと舞子が立ちあがった時である。
舞子の背後から、突然声がかけられた。
「おろ? どした舞子、廊下にボーっと突っ立って?」
舞子が今1番会いたかった相手が、背後の階段傍に立っている。
ほかほかと湯気を纏う浴衣姿で、上機嫌そうに笑う命彦が、いつの間にかそこにいた。
はずかしい姿を見せまいと、目を赤く腫らした舞子が、必死に顔を隠して慌てて言う。
「ま、命彦さん! どうして起きてるんですかっ!」
「おいおい、3日も昏睡状態でいた俺にまだ寝てろと? 目が冴えて寝付けねえんだよ。姉さん達も多分今までの俺の看病と、魔力を送った疲労のせいで、あっという間に寝ちまうし……
舞子の横に立った命彦が、
「一応は母さん達が毎日身体を拭いてくれてたらしいけど、それじゃあ汚れは取れても、身体の芯に残る疲れはとれねえもん。風呂で全身をほぐすのが一番いいんだよ。神樹邸の風呂は泳げるくらいに広い上、温泉だぞ温泉? 風呂好きの俺としては当然入るわけだ。あー気持ちいがったぁー」
頭に手拭いを乗せて、のほほんと嬉しそうに笑う命彦。
つい3日前にミズチと殺し合いを演じ、しかも当のミズチを討ち取った少年が、今自分の目の前でホエーっと上機嫌に笑っている。
その余りに緩い笑顔を見て、どういうわけか舞子は思わず吹き出してしまった。
ついさっきまで深刻に思い悩んでいた舞子の心を、その笑顔は一瞬で洗い清めたのである。
「ぷっ……うふふ、あはははは!」
「おい、失礼だぞ舞子! 人の顔見て思いっ切り笑いやがって……悩んでるっぽい感じがしたから、わざわざ心配して声かけてやったのに!」
「あふ……す、すいません。命彦さんの、あまりにものんびりしたお顔を見てたら、色々思い詰めてたのが馬鹿らしく思えて、つい、ぷふふ」
「思い詰めてた? ははーん、どうせあれだろ? ミズチを相手に、自分が腰抜かして泡喰ってたこと思い出して、あたしは弱いとか思ってたんだろ? そいで高位魔獣の怖さや、命のやり取りをする怖さを今頃思い出し、寝付けねえってわけだ?」
あたらずとも遠からずといった命彦の指摘に、舞子が顔を真っ赤に染めて叫ぶ。
「ど、どうして分かったんですかっ! まさか一部始終を見てたんですか!」
「一部始終ってどういうことだよ? てか声がでけえ。静かにしろって。俺はついさっきここを通りがかったばかりだぞ? 1階の露天風呂から3階の自分の客間に戻ろうとして、階段上がって2階に着いたら、廊下に立つ舞子の姿を見かけたから、声かけたんだよ。舞子が悩んでるって思ったのは、ただの勘だ、勘。両目が赤いし、若干やつれた印象があったからさ? あれだけのことがあったんだし、怖くて寝れねえんだろうと推測しただけだ」
「そ、それだけで分かるものですか?」
ワタワタと目を押さえたり、頬を押さえたりする舞子に、命彦は当然とばかりに応じた。
「そりゃ分かるさ。迷宮に潜る魔法士だったら、誰もがそういう挫折っていうか、痛くて苦い思いを味わうんだよ。俺達だって通った道だし、分かるに決まってんだろ? 恐ろしい敵性型魔獣に遭遇し、運良く生きて街へ戻った。命があることに歓喜しつつも、自分が弱いことを思い知らされ、未熟だった悔しさを噛み締める。ホント、よくあることだよ」
舞子が唖然として、命彦を見ていた。
自分と同じ苦悩を、実は命彦達も経験していたという事実に、余程驚いたらしい。
命彦が優しい笑顔を浮かべ、舞子を見返す。
「迷宮の洗礼ってやつだ。熟練の学科魔法士だろうが、新人の学科魔法士だろうが、誰もが皆、等しくこれを受けてヘコむんだよ。そして、自分が味わった魔獣達の怖さに震え、夜は夢に見る。熟練の魔法士達だって、ふとした拍子に魔獣の力を思い知らされて、ヘコむことがままあるんだぞ? 新人の舞子だったらヘコんで当然だ」
「……っ!」
舞子の胸に命彦の言葉が浸透した。命彦が優しい目をして言う。
「自分を恥じる必要も、責める必要もねえよ。怖いもんは誰だって怖い。迷宮に潜れば、そういう目に遭うことは、魔法士だったら誰だって分かってる。分かった上で迷宮に潜るんだ。もしミズチとの遭遇で自分が無力だったからって、弱さを責めてるんだったら、お
命彦の発言に舞子がポツリと言う。
「……命彦さんでも、怯える相手?」
「ああ、当然だろ? てか、全長15m以上もある魔竜種魔獣と不意に会敵して、それでも怖がらんヤツって、多分オツムと神経がおかしいから、ごく普通の頭と神経を持ってる魔法士だったら、全員すげえ動揺すると思うぞ? 心が弱い魔法士だったら、魔竜の威圧に耐え切れず、卒倒すると思う」
命彦が舞子の頭をポンポンと優しく叩いて言う。
「その点舞子は意識を保ってた。授業で精神訓練を受けたわけでもねえのに、よく耐えたと思う。偉いぞ、褒めてやる」
命彦の言葉と手の温もりに、舞子の胸がトクンと鼓動し、ポッと温かみを帯びた。
「あ……あ、ありがとう、ございますっ!」
不意の褒め言葉に舞子は目を丸くして、反射的に頭を下げた。
余程命彦に褒められたのが嬉しいらしい。舞子の顔が思わず緩み、朱色に染まった。
「うむ、姉さんやミサヤには秘密だぞ? 色々と誤解されるから。とはいえ新人魔法士で、そもそも戦闘型の魔法学科を修了したわけでもねえ限定型の学科魔法士が、魔竜種魔獣の殺気や魔力の波動をまともに浴びて、衝撃波に近いその咆哮に威嚇されても、どうにか意識を保っていたんだ。割と凄いぞ、俺の好感度は結構急上昇した」
「ほ、本当ですか?」
「ああ。こういう時に嘘は言わねえよ。結界魔法の内側でプルプル震えてるだけだったが、よく意識をもたせたもんだ。人にもよるが、そこそこ実戦経験がある魔法士達でも、心停止が起きる可能性があるほど、危ねえ場面だったんだぞ? 自分が思ってる以上に凄いことをしてたんだよ、舞子は」
命彦の言葉に、照れ過ぎて耳まで真っ赤に染める舞子。
馬鹿にされ、侮蔑される方が多かった舞子には、命彦の褒め言葉がとても心に染みた。
「ありがとうございます……は、初めて、命彦さんにまともに褒められました!」
「うむ、今後とも精進しろよ? 努力次第だが、見込みはあるとだけ言ってやろう。追えるとこまで夢を追えばいいんじゃね? 応援はしてやるよ。挫折しても、俺は責任を取らんけど。くくく」
「ひ、一言余計です!」
舞子が頬を膨らませて言い返す姿に、命彦がまた笑った。
命彦にとってはどうでも良い普通の会話だったが、舞子にとってこの時の会話が救いを与えた。
命彦が自分のことを少しは認めてくれていた、そのことが分かったからである。
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