第5話・昇位――苦痛と快楽の狭間で
人間離れといえば、魔物としてもロタール殿下は信じられないほど強くなった。魔物を狩り続けたからか、魔力を蓄え続けたからか、様々な経験を積んだからか、あるいはその全てか。今や、もともとは病床からまともに離れられないほどの虚弱な人間と、ろくに固形物も消化できない最弱のスライムであったとは誰も思うまい。
鉄の棒だろうと藁よりも容易く曲げ伸ばししてみせる。王城の庭に埋まっている、いかにも重そうな大岩を片手で軽々と持ち上げそのまま戻すのを彼が見せたときなど、私は乾いた笑いしか出なかった。今の彼にとっては私の体重など羽毛よりも軽いゆえか、ことあるごとに抱き上げてみせようとしたり。
けれどそんな彼がしばらく私と触れたがらない時がある。
「ふあっ」
「あっ」
『ごめん、そろそろ昇位の時期だから君に触れられると力が抜ける……』
『しょうがないわね……』
もっというと腰砕けになるというのが近い。魔物としての存在の格を上昇させる――昇位に十分な力を蓄えきった後は、私にふれられるとなんとも言えずくすぐったいのだという。自分が破裂する寸前の風船になったような感覚だ、と彼は語る。早く昇位してしまえばよいのに、と思わないこともないが、昇位寸前の状態をできるだけ長く維持した方がより強くなれるそうで、予定の調整も兼ねて彼はなかなか昇位しようとしない。
「今晩だから、またお願いね」
「わかりました」
昇位のときも私は彼の手を握る。「身体をどろどろに溶かし鋳型に填めて作り変えるような」この上ない苦痛と、その代わりなのかこの上もない快楽が襲うが、私の手を握っていれば苦痛が和らぐらしい。一度その感覚を共有しようと思ったのだが、彼に大慌てで止められた。
いつもの自室の寝台の上、仰向けに横たわる彼は頬を上気させ息を荒げている。ふだんはひやりと快い身体も今は火照って熱っぽい。手を握る。信じられないほどのエネルギーが彼の中に集中し渦巻き巡っているのが感じ取れる。分身の群体であるとはいえ、これが人型に納まっているとは信じがたい。ちなみに分身間で昇位も同期されている様子。
「はっ、はっ……」
実を言うともはや呼吸すら必要ないのだと彼は言う。それなのに息を荒げるのは、純粋な人間であった頃の名残か、大気中の魔力を吸ってでもいるのか。
「ふぅっ、はあぁっ……」
ただひたすら痛々しいだけだった病弱なころの
「くっ、る、うっ……」
彼は堪えるように声を押し殺す。それを見ている私の方もなんだか疼かせるかのよう。
「ぐう、うっ……」
まさに昇位のとき、苦痛の極点にいるはずなのだが彼は奇妙に晴れやかな表情をみせる。
「……!!!」
『お、おおっ……!』
分裂時の絶叫とも違う、解放の雄たけび。膨大なエネルギーが瞬時に発散される。そして一瞬の虚脱。けれどそれは倍する勢いでまた彼の裡へと戻り定着する。究極の苦痛と快楽。
全て終わればなにもかもが凪のように静まりかえり。けれど確かに満たされた感覚は経路越しにこちらにまで伝わってくる。私でさえ恐ろしいほどの満足感と幸福感をかんじているのだから、彼自身は全能感と言ってよいほどの力感が体内で渦巻いているのだろう。
「終わった……ありがとう、いつも……」
「いいのよ、あなたのためならなんでもするわ……」
すっきりと澄んだ瞳。繋いだ手を離して、彼は自らの力を確認するかのように手を握りしめたり開いたりしている。外見上は大きな変化はない。けれど細かな部分ではより最適化されたかたちになった。私はそれを、しなやかな美しさがよりいっそう洗練されたと認識する。そして変化を終えた彼の秘める力は、昇位前とは比べ物にならない。
腹筋の力だけで上体を持ち上げ、彼は寝台から勢いよく降りた。しっかりと二本の足で床を踏みしめる。
「さて、と……水を浴びたいな……」
スライムの性質を継いだだけあって彼の身体はいついかなる時でも清潔であるが、精神的なものもあり昇位後は沐浴や入浴をすることも多い。
「たまにはお背中をお流しましょうか?」
「そうだな、たまには頼む」
大きな木桶の中に適温のお湯を入れる。彼はその中に静かにうずくまった。
「ふぅっ、気持ちいいな……」
彼はてろんと蕩けた表情をしている。私は彼の引き締まった肉体をしばし堪能したが、あることに気づいて大いに慌てた。
『とけてる、ねえ端っこがとけてる!! でろでろしてる!』
『んあ? ああ、これはとけたんじゃなくて末端がスライム化したんだな、心配しなくていい。水から上がれば元に戻る。……そうか、ずいぶんとスライムとしての位階が上がったんだな……』
『そうなの……? あなたの身体が平気ならばいいけれど、人前ではそうならないようにお気をつけくださいませ』
『そうするよ、教えてくれてありがとう』
再び彼は目を細め、とても幸福そうに微笑んだ。
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