第2話【 変質者の帰還 】
時は桃也が記憶を失くす前に遡る――。
その日、学校から帰宅する桃也の足取りは軽かった。今日から夏休みであり、居酒屋のバイトが休みということも相まって、今にも踊ってしまいそうなほどウキウキしていた。
アパートの階段を一段飛ばしで軽快に上り、勢いよく205号室のドアを開ける。すると、背中を丸めて座り込む母親——
京子の丸まった背中、その先には真っ白な祭壇がある。木製で作られた簡易な代物で、両サイドには白い紫陽花が活けられており、祭壇の真ん中には写真が飾られていた。
京子は頭を垂れながら、これまた真っ白な数珠を手にお経を唱えている。
「シュゲルシュゲルギョギョウノシュリギジュキャイギャリジュイジョノ――」
般若心経でも法華経でもない、摩訶不思議な経。全宇宙の神、ハクビャク様を信仰する『
「あら、帰ってたの」
経を唱え終え、京子が言った。
振り向いた京子は、いつもと変わらぬ満面の笑みだった。なるべくそれに応えられるよう、桃也も笑ってみせる。だがその笑顔はぎこちなく、唇の端を僅かに釣り上げただけに留まった。
「今日、バイト? ママもさっき帰ってきた所なのよ」
京子は掛け持ちで働いている。昼はドラッグストアのパート、週末の夜はスナックという具合に。一児の母とはいえ京子は三十五歳とまだ若く、おまけになかなかの美人でスナックの常連に人気があった。現状、桃也と京子の二人三脚で生計を立て、なんとかやりくりしている。実際問題、切り詰めれば京子一人の給料で生活できなくもないのだが、なにせハクビャク様のお布施とやらがあるのだ。
「これから晩御飯の買い物に行ってくるから。帰りにスーパーに寄ればよかったんだけど、タイムセールまで時間があるじゃない?」
「俺はカップ麺食うから、晩御飯は母さんの分だけでいいよ」
「そんなこと言わないの。まったく、作り甲斐がないわねぇ」
京子はバックを手に、そそくさと買い物に出かける。
「ちゃんと鍵掛けとくのよ?」
「……」
「ちょっと、聞いてる?」
「わかってるよ」
玄関のドアが閉まり、桃也は畳に腰を下ろした。眼前にある、夕陽でオレンジがかった祭壇を見つめる。祭壇に飾られた写真には、笑顔を浮かべる桃也の父親の姿があった。
半年程前、桃也の父——
どうやら大量の借金を抱えていたらしく、挙句若い女を作って蒸発したらしい。歯切れが悪いのは、桃也も京子も事の真相を知らないからだ。それらは全て宗司の友人や仕事仲間、警察から聞いた話で、皆一様に曖昧な口調で話を締めくくっていた。
しかし真相はどうあれ、噂というものは一度火が付くと瞬く間に飛び火する。近所や学校では、借金を家族に擦り付けて女と消えた最低なクズとして宗司は認識されている。小火だと思っていたのが、いつのまにか大規模火災ってわけだ。
一家の大黒柱を失えば当然収入も減る。建設作業員だった宗司はけして高給取りではなかったが、それでも2LDKのマンションに住み続けること不可能だった。
「なにやってんだよ。俺たち残して、勝手にくたばりやがって……」
写真に唾でも吐いてやりたい気分だった。
おそらく、宗司はもう死んでいる。というのも、宗司が消えてからしばらくして取り立ての一切が止んだのだ。東京湾の海に沈められたか、もしくは酸で跡形もなく溶かされてしまったか……。
だが、京子はまだ生きていると信じている。
京子は完全に狂ってしまった。新興宗教にハマり、宗司を探し出すためにハクビャク様の力が必要だと言って毎日経を唱えるようになった。教団のシンボルカラーである物を片っ端から揃えるようになり、今じゃ日用品のほとんどが白色だ。今、久遠家の冷蔵庫に牛乳と豆腐がどれだけあることか。
宗教にハマったことを除けば、いつもの気丈で明るい母親なのだが、桃也にはかえってそれが気味悪かった。しかし、だからこそ桃也も以前の息子でいる必要があった。そうしなければ、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「クソ親父……」
桃也は震える拳を強く握った。
出来ることなら、この手で野郎の顔面に一発お見舞いしてやりたかった。なのに……。
「なにもかも、テメーのせいだからな……」
なぜだろう、憎んでいるはずなのに、脳裏に浮かぶのは子供の頃の親父との思い出ばかりだった。
公園でのキャッチボール、自身の誕生日にプレゼントとケーキを抱えて帰ってきた父親の笑顔――。
「くそっ、早く帰ってきやがれ、ちくしょう……」
気づくと、口がそう勝手に動いていた。
涙が溢れ、堰が切れかけたその時――。
強烈な閃光が桃也の視界を襲った。
その間、3秒も満たないだろう。光が収まっても、しばらく桃也の視界は霞んだままだった。
目を凝らすと、仏壇の横になにやら肌色の丸みを帯びた物体が……。
「――――ッ!?」
そこには、真っ裸でクラウチングポーズを決め、頭に女性モノのパンツを被った宗司の姿があった。
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