141話 瘡蓋

 ♤


「武田ッ!!」


 歓声と蝉の音が一枚の膜を張った様にぼやけている静かなテント内で、その膜をぶち破ったのは、肩で呼吸をしている砂流であった。


「保健室では静かに、ね」

「…………砂流……?」


 折り畳み式の診療ベッドに腰掛け、転んで擦り剥いた膝を消毒してもらい、大袈裟にも包帯を巻かれた俺は呆気に取られ、若い保健室の先生は使った医療品を片付けながら、優しく咎める。


 膜を破り慣れてるなんてヤ○チンじゃんとか、ふざけて煽りたいのも山々だが、保健室の先生やここまで運んでくれた海鷺さんもいるから、俺は別の話を振ろうとリレーの結果でも聞く事にした。


 聞こうとした。


 だから、聞けなかった。


 目を血走らせて、砂流が俺の方に寄ってきたから。


「この馬鹿ッ!!」


 明らかに冷静さを欠いた砂流が、俺の胸ぐら掴んで引っ張って叫んた。


 1、2週間のトレーニングで足の筋肉を鍛えたとはいえ、女性の柔らかい体型をキープしている俺のヘナチョコな体では、体格に恵まれてる砂流の腕の筋肉だけで軽々と持ち上げられ、ベッドから腰が離れていた。


 顔を近づけて、歯を食いしばって、一瞬俺は殴られるのではないかと思い、目を瞑ろうとした。


 でも、その顔を見て察した。


「…………静かに」


 呆れか諦めか、あまり強く言わない先生も流石に止めた方がいいと判断したのか、砂流の肩を引き、海鷺さんも反射的に胸ぐらを掴む砂流の腕を握った。


「よかった………大した事なくて………」

「…………………砂流……」


 涙を流すことはなかったが、今にも泣きそうな顔をして、殆ど泣いてる声で、砂流はそう言った。


「心配した…………顔真っ赤なのに青ざめてたし、足引き摺ってたし」

「だから、大した事あるのよ。説明するから、まずはその手離しなさい」

「あ、…………すいません」


 やはり我を失っていた砂流は、ベッドに下ろすようにゆっくり手を離し、メイクが崩れないように指先で涙を拭う。


「擦り傷だけじゃ無く、太ももとふくらはぎの筋肉痛と、軽い熱中症。こんな状態で走ってれば、転ぶのは当たり前よ。立っているだけでも信じられない……」

「ははは……」

「笑い事じゃないわよ」


 若い保健室の先生は、見た目のわりに言葉がきつい。乾いた笑いももう出そうにない。


 チラッと見た砂流の顔は怒りに満ちていて、逃れるように見た海鷺さんの顔は不安に押しつぶされそうな顔をしていて、俺は視線を適当な方向へ飛ばす。つまり目を逸らす。


「足引っ張って、ごめん。順位はどうだったの?」


 ついでに話も逸らそうとして、


「…………知らん。それより怪我、大丈夫なんか?」


 大失敗した。


「大した事な………くはないらしいけど、私は元気だよ。ほら」


 同じ毒を飲んでいるこいつに通じるかわからないが、精一杯の笑顔で腕や体を動かし、ありったけの虚勢を貼り付ける。


 信じられないといった先生はともかく、2人は疑いの目を向けている。その疑いを晴らすなら、走ったりジャンプしたりするのが一番なのだろうが、生憎ながら激痛が走っているから、出来そうにない。


 筋肉痛による内側の痛みと、擦り傷による外側の痛み。転んだ時は足を切られたような感覚に陥ったが、今はだいぶ落ち着いている。


 見た目最悪だからと朝剥がした湿布も、先生に再度貼られ額に冷えピタも貼られ、絆創膏だけでなく包帯まで巻かれた痛々しい見た目の膝を見れば、信じろと言うのが無茶な話か。


「海鷺さんもありがとね。肩貸してくれて」


 だから話を逸らす。


 沈黙やはぐらかしは、肯定と捉えられるだろう。それでもいい。俺だって信じられないし。


 ならせめて、強がりとか空元気とか、「武田后谷は元気に振る舞っている」という事だけ、知ってほしい。


 心配しないでという無言メッセージだけ、受け取ってほしい。


「歩くのもフラフラだったから、ほんと助かったよ」

「いいえ。私は親友として、当たり前の事をしたまでです」

「………それでも、ありがと」


 その「親友」という言葉に、嬉しさと寂しさを抱くのは、嘘をついた罰だろう。


「それなら私も謝らなくてはいけない事があります。砂流さんのご活躍を拝見出来ず、ごめんなさい」


「そんな事どうでもいいよ。……送ってくれて助かった。俺からも礼を言わせてくれ」

「…………………………」


 恋する乙女の顔に、チクリと、筋肉痛や擦り傷と違った痛みを感じる。だからそっと、目を逸らす。


 振り向かせるどころか、恥を晒して迷惑まで掛けて、完全に裏目に出た。やはり向いてない事はする物じゃない。失ったものに比べて、得る物があまりに小さく少なすぎる。


 だからといって諦めるつもりはない。一度の失敗でめげる程、俺がした覚悟は軽くない。


 なんたって、勝ち目がなさすぎる恋なのだから。


「思ったより元気だね武田さん。安心した」

「あれ、都楽くん?」


 割って入ってきたというより、様子を見にきたという様子の都楽くん。テントの出入り口には巳扇さんと柳生田君の姿もある。


「もうすぐ2年生のリレーも終わるよ。3年生が終わったら軍対抗の準備しなくちゃでしょ?」

「え、もうそんな時間?」


 テントの柱に吊り下げられた時計を見ると、長い針は6の前、短い針は2と3の間を差している。予定時刻より10分も早く、プログラムは終了している。


「2人は出ないっぽいけど、何か実行委員の仕事あったりする?」

「あ、片付けしないと。完全に忘れてたわ」


 リレーで開始のピストルやゴールテープを担当しない実行委員は、午前中の種目や先ほどの応援合戦で使った道具の片付けしなくてはならない。忘れてる人やサボる人は多いだろうけど。


「こんな事してる場合じゃ……」


 急に動いて、足の筋肉に命令して、またもや激痛が走る。だいぶ休んだから、このぐらいなら平気だろうと立ち上がったらこれだ。


 何とか踏み留まり、多少強張ったが笑顔は崩さなかったつもりだが、不意に出た尻尾は全員に見られ、


「いや、俺だけで行く。武田は休んでろ」

「そうです。まだ安静にしていた方が……」


 休息を促される。


「私まだ動けるよ。成り行きとはいえ実行委員任せられてるんだから、任された事はしっかりやらないと…………………って言っても、もうあまり頼りにならないかもだけどね」

「そんな事ありません!!!」

「……静かに」

「……………すいません」


 俺たち以外に休んでいる人がいないからいいものの、少し声がデカい。


「武田さんは十分頑張ってます。むしろ他の皆さんがもっと頑張るべきです。頼りにしすぎています」


 自分の腕を抱くように握る海鷺さんの手は、徐々に強く、徐々に震える。


「実行委員をやりたくないのは武田さんも同じで、それでも頑張ってるのに誰も手を貸さないのは、頼ってばかりで何もしないのは、あまりにだと………………すいません。言い過ぎました……」


「…………ありがとね」


 普段から感情の起伏は大きい海鷺さんだけど、殆どがポジティブな方向で、何も無くても笑顔を浮かべている彼女が、こんなにも熱くなっているのを俺は初めて見た。


 新しい一面を見て、ドキッとした。


 そう思うと、どこか似ている。


 俺の周りにいる女の子は、感情豊かな子が多い。


「私が代わりにやります」

「なら僕もやるよ、実行委員代理。もう片付けだけでしょ?」

「え?待って、俺別に怪我してないし……」

「付き添いは必要でしょ。僕じゃ沈黙で無駄な気を使わせるし、回復しても肩貸すのが精一杯なんだ」

「ソンナコトナイヨ」

「……お世辞は求めてないけど、僕にだって僅かなプライドがあるんだよ」


 都楽くんは「これだから自虐ネタは嫌いなんだ」と、小さく独り言を呟きながら、


「とにかく、今は武田さんのそばにいてあげて。いいね?」

「お、おう」


 砂流は彼の予想外の行動に動揺している。俺も都楽くんがそんなに強く言うのは珍しいなと思いながら、役目を代わってくれた彼らの背中を見送る。


 保健室の先生以外誰もいない空間に残されて、先ほどまで騒がしかったのに、急に静かになって沈黙が訪れる。


「……………………………」

「……………………………」

「……………ふっ」

「何?」

「いいや何でも」


 急に設けられた空き時間に、妙な空気の漂う出張保健室に、不思議と笑いが込み上げた。


「モノの見事に大失敗だったなって」

「そうだな」

「人間向き不向きあるんだから、無茶しなければよかったかも。大体、筋肉痛で走るなんて、我ながら馬鹿だな」

「………本当に大丈夫なんか?」

「………大丈夫な訳ないでしょ。乙女の生足がこんな悲惨になって」

「そっちじゃなくて。………海鷺さんの方」

「…………そっちね」


 こいつなら、嘘ついたり強がったりする必要は無い。保健室の先生も、手元の書類に夢中で聞こえてなさそうだし。


「見栄張りすぎただけ。次は出来る事でアピールしてくし、背伸びし過ぎないよう気をつける」


 背を伸ばさないよう尽力したのに、ハイヒールで量増しするなんて意味不明な事はしない。


「最初からあまり刺さらない作戦だったし、盛大に転んだけど、あまり傷は深くない」


 精神的にも、物理的にも。


「てか、逆に少しおっちょこちょいの方が母性くすぐるかもしれんじゃん?ほら、可愛いし。女の子ってギャップに弱いし、料理や話術で攻めて、苦手なとこもアピールしまくれば、案外いけるかも知れんし」


 何も言わせたくないし、何も気付きたくないから、空白を空っぽの言葉で埋める。


「だから、砂流の手は借りないよ。応援するな」

「……………わかった……」


 海鷺さんの一言が嬉しかった。頑張っている所を見ていてくれた事、クラスメイトに苛立ちを覚えた事、とても嬉しかった。


「でも、フラれた時に慰めるくらいなら、認めてやってもいい」

「…………なんだそれ」


 こんな下らない話で、体育祭という青春を飾る大きなイベントの幕は下ろされた。要するに、俺は会心の一撃を決めようとして大きく空振り、逆にダメージを負っただけである。具体的には膝に、全治3週間の擦り傷を。


 熱中症は軽かったため翌日には治り、筋肉痛は2日ほど長引いた。体育祭以降、走り込みはしなくなったので少しは筋肉が落ちたが、脚線美を描いていた足はしばらくゴリゴリで、傷を隠すついでにストッキングで誤魔化す日々が続いた。


 失ったものはあまりに多く、その為に得ようとした報酬は得られず、強いて言えば「汗水流して動く体操着少女は素晴らしい」という感想と、「ストッキングも悪くない」という発見ぐらいだった。

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