第6話


 嘘を覚えたのはいつのことだろう。――正確に言えば、嘘を『使おう』とするようになったのは――子供ながらに、子供だからこその、のっぴきならない何かしかに迫られて嘘をついてしまったのはもう覚えてもいない遥か昔のことだが、なにかをなすための手段として嘘を使おうというのが選択肢に入った時というのは、その選択肢がもはやあまりにも自分の中に染み込みすぎていて、遡ろうにも手掛かりがない。




 嘘をつくということに禁忌と罪悪を感じていたはずが、いつの間にやら自分の中の『良い嘘』『悪い嘘』の境目に線を引き、手前勝手に取り出してふるう。それは大人の醜悪さでもあり、そしてあるいは、優しさでもあるだろう。やるせないことであるが、つくべき嘘というものが世の中には確かに存在する。ただ己の規範だけをもって時に残酷なことでさえ口にするというのは、正しいことかもしれないが、間違いなく、正しいだけの空しいなにかだ。




 嘘の良し悪しに線を引いた時というのが、ひょっとすると、自分自身の子供と大人の間に線を引いた時なのかもしれない。




「正直に言うぞ。儂が、この儂が、暑くて苦しくて不愉快な思いをしておるから、おぬしの電気代で、このおぬしの部屋のエアコンをつけよ」


「お前もう少し歯に衣を着せような」


「暑いでのー、できるだけクールビズしとるのじゃー」




 この減らず口とかとってもガキって感じ。




 いよいよ七月に入り夏本番。嶌村荘204号室は今日も変わらず異種族の侵入を許してしまっていた。




 黒のタンクトップに黒のショーパンといういよいよ部屋着も極まった格好のえるふは少しでも冷感を求めて、玄関から部屋につながる短い廊下のフローリングを延々ごろごろと転がりまわりつつスイッチを弄りまわしている。マメに掃除しているからきれいなはずだが、正直衛生的にどうなんだろうか。あとぱんつしまえ。




 とはいえ少しばかりの変化はあった。えるふがファッション面で完全に油断しきった姿をさらすようになったのもそうだが、奴の興味が光る円盤からハイリアの大地に移ったおかげで、俺は24時間ほぼ完全にモニタとパソコンを取り戻すことに成功したのだ。だからといって一日中フルタイムで弄り回しているわけではないが、時間を気にせずマイクラで見渡す限り延々と整地したりMODつっこみたくったスカイリムでロケーション探し回ったりできるのは、久々に取り戻した自由ということもあって思わず時間を忘れさせる。




 その結果、俺の一年のバイト代を全ぶっぱしたゲーミングPCと、えるふが一日中起動しているスイッチの排熱、梅雨どまんなかの湿気と風通しゼロの四畳半、そして二人分の人いきれが充満して、なんかもう、すごいことになってしまっていた。




 暑い。もうすごい暑い。語彙力が死ぬくらい。




「もうなんかこの部屋凄すぎて黒以外の服が着れんのじゃ! なんじゃ! それともえるふっぱいが透けるとこでも見たいのかおぬしは!」


「あんまり興味ないしお前の格好の理由は絶対それだけじゃないしそもそもエアコン導入をためらうのはお前のせいだよ!」




 確かにだ。確かにこいつはメシ代と称して俺に金を渡した。




 しかしだ。かといってそれで完全に安心できるほど潤沢な資金力が俺にはないのも事実。




 俺だって暑い。暑くてたまらん。だからと言ってこの部屋に最初から据え付けられていた燃費のねの字もない骨董エアコンを一日中ぶん回してみろ。電気代が一瞬にして倍近くに跳ね上がる。今年こそは毎年東京で夏冬開かれるお祭りに参戦しようとこつこつ積み上げた貯金にいよいよ手が伸びてしまうかもしれん。それだけは避けなくては。




「えぇいもう。ケチくさいのう。結局原始的な方法で涼をとるしかないのか」


「人口密度を下げる気がないのなら是非そうしてもらいたい」


「わかったわかった。儂とて大人じゃ、譲歩しよう。シャワー浴びる」


「だからそういうところが! 俺の家計にじわじわ響いて!」




 ちなみに今日だけで三回目。




「隣にお前の部屋! なんで俺の部屋なんで!」


「じゃってつかったら掃除もせねばならぬし。自前でシャンプーやら用意せねばならぬし。ここならオートで補充されてオートで綺麗になっとるし」


「全部人力だよ!」




 コインランドリー騒ぎ以降、「ランドリーに持ってくのめんどいので洗濯機を貸せ」→「洗い物運んでくるのめんどいのでコッチで脱ぐ」→「脱ぐからにはシャワー浴びて着替えもする」という最高にジャイアンな三段論法を展開した腐れ異種族はついに風呂まで俺の部屋で済ませるようになっていた。




「ユニットだからえるふが入ってる間は便所もいけねぇし脱衣所ねぇから脱ぐとき着るとき一々部屋の外でなきゃいけねぇしお前シャワーなっがい上にシャンプー5プッシュくらい使ってるだろ!」


「髪が長いんじゃから仕方なかろう」


「そうだな。ってなると少しでも思ってんのお前?」




 かといって俺が粘ると「まぁ儂は別に気にせんし」とかいって脱ぎ始めるので退散せざるを得ないのも歯がゆいところだ。




「俺だってここんとこ汗が酷いから、たまには湯船にお湯張って漬かりたいんだよ。それがお前、毎日3度4度とじゃぶじゃぶ水が流れてる音がしたら怖くてもうバスタブとか使えねぇよ」


「んー。まぁ言いたいことはわかる。とはいえ儂も夏のお祭りにはいきたいのでの? おぬしにポンと小遣いを渡すわけにもいかぬ」


「あれは小遣いじゃなく迷惑料だ」


「となればここはアレじゃの! とるべき手は一つじゃの!」




 すっくと立ちあがったえるふが腰を落とし、奇妙にひねりをくわえたポーズで両手を広げた。




「銭湯に行こう!」


「そこはトランクからバーンとなんか出せよ」




 ナイショ道具さえ出てこなくなったらお前ただのごろごろしてる中学生じゃん。




「別に水が延々出てくるケロヨン洗面器とか出してもええがの? どうせなら足が延ばせる広い湯船につかってマッサージ機にかかってコーヒー牛乳飲みたくないかの? たしかそう遠くもないとこにあったじゃろ、一つ」


「あー」




 確かに。




「いいな」


「じゃろ? じゃろ? やっぱりこう、便利な道具に頼り切ってばかりというのもなんだと思うのじゃ。時には日常の些細な幸せに目を向けてじゃな」


「頼った覚えはあんまりない」




 というわけで着替えやらなんやらをエコバッグに詰めて外に出る。あまり行ったことの無い銭湯だが場所はさすがに覚えているし、確か昼すぎからやってたはずだ。帰りしなに西友にでもよれば晩飯もちっとは気の利いたものを作れるかもしれん。




 そして愕然。「外のほうがまだ涼しく感じるってなんだよ。俺の部屋は。地獄か」


「そりゃないじゃろ? こーんな天使のようなエルフが常駐しとるというに」


「何の罪を犯して地に堕とされたんで?」




 とかなんとか。




 梅雨ど真ん中のここのところ、一週間ぶりにピーカンに晴れた町を二人で歩いていく。特に歩調を合わせるでもなく、思い思いに。というか、えるふがあっちいったりこっちいったり落ち着きがゼロなので合わせようがない。なんの変哲もない、ちょっと避ければ通れる水たまりをわざわざ飛んで渡ろうとして失敗したり、小学校の校庭を覗き込んで手を振ってみたり。一人で行けばチャリンコで十分の道でよくもまぁこれだけウロチョロできるもんだ。




 まぁ曲がりなりにも異世界産の、なんだかとかいう王国出身の異邦人なわけだから、こんななんでもないような日本の街並みも珍しく感じるのかもしれない。




 あるいは俺がえるふの暮らしていた国にいったならば、こんなにはしゃぎまわってしまうのだろうか。えるふにとっての水たまりを飛び越す自分を想像するが、どうにもうまくいかなかった。




 いちいち外に出るたびかけろかけろとエルフがうるさいので、例のメガネを掛けるのはすっかり習慣になっている。もちろん、そうして垣間見える日常ならざる日常の風景も変わらずそのままだ。




 奇天烈で、珍妙で、決して新鮮味が失われたわけでもなく、今日も今日とてぎょっとするようなものが多々見える。




 が、だからと言って何なのだろう。




 はしゃぐわけでもなく、驚くわけでもなく、目で見て息を呑めど口には出さず。




 目の前の珍奇にこのありさまの俺が、たとえ異国に行ったとして、いったいどれほど変わるだろうか。




 通り過ぎざま、コンビニから出てきた女子高生の額からなかなか立派な角が生えているのを横目に見ながら冷蔵庫の中身のことを並行して考えている、俺が。




「……おぬしよ」


「なんだ?」




 アイスでも食いたくなったかこいつ。




「なるほど。わしのぼでーは中学生並み、食指が動かんのはまあ理解もできようが、しかして高校生はありとなるとなにやら些かの憤りを感じるのじゃが?」


「は? 何言ってんのわけわかんない」


「そんなありきたりなごまかし方で何とかなるとでも思っておるのか! この淫行大学生! JKの夏服をそんな舐めるように見くさってからに! お巡りさんこいつなのじゃ!」


「あー! これあれだ! ラブコメとかでよく見るあれだ! 何言っても見苦しい弁明にしかならない系のややこしい奴だ! あえて言葉は重ねねぇぞ! 黙れ!」




 そしてさっきの角付き女子高生がゴミを見るような目で俺を! やめてください! 不審者じゃありません!




「だいたいおかしいおかしいと思って居ったのじゃ。今年二十で独り暮らし、条件としては発情期のサルもいいところのはずが、口を開けばやれぱんつしまえだのやれ部屋に帰れだの。ひょっとして彼女でもおって本来わしがいなければ日中丸ごとずっこんばっこんノクターンの予定じゃったかと思えばまるでそのような気配も無し! 機能に問題があるでもなくDMMゲームズには頻繁にログインしておるようじゃし。つまり制服フェチの業の深い奴じゃったんじゃな!」


「ようし分かった。お前最近マジで調子乗ってるというのがよく分かった。そっちがその気ならやってやろうじゃねぇか」


「あぁん? そっちが始めた戦争じゃろうが! このブルセラ下郎めが! 今すぐドンキでコスプレセット買ってきてやるから土下座するのじゃ!」


「お前のスタンスがわかんねぇよ駄耳コラ。なんだ。そんなにこのクソオタ大学生の性対象になりたいんか痴女ルフてめぇ。薄い本にしてやろうか」


「お? お? やるんか? やるんかエロゲ戦士が。現実の女体に恐れおののいとるんじゃないんか? なんじゃ今からそこの路地裏でぱんつ下げてやろうか? 下郎の思い出を青空の下散らしてやろうか?」


「え、何お前マジでそういう感じで見られたいの」




 それって下ネタ合戦の枠超えてない?




「突然素に戻られるとこっちも辛いんじゃけど」


「なんかごめん」


「……ガム食う?」


「食う」




 差し出されたガムを(所謂パッチンガムじゃねぇだろうかとちょっと警戒しつつ)口に含む。見た目オーソドックスな板ガムだけど見たことない製品だ。ミント系で結構うまい。




「そういや最近新作の菓子とか買ってねぇなぁ」


「帰りに見ていかんか。そんでツタヤでDVD借りて映画&菓子パーティーとかせんか今晩は」


「菓子より独りだとできないタイプのメシとかのほうがいいかな。えるふがきてから部屋が華やいでるし。それを生かす感じで」




 ……ん?




「おほ? 華やいどる? 儂が来てちょっとええ具合かの?」


「だってやっぱこう、男の一人暮らしとはちょっと違うじゃん。普通に男友達がいるってのとは違うしさぁ。だからお前、あれ、ほんと目のやり場に困るから薄着はほどほどにしろよな」




 ……んん?




「おほほ。そうかそうか。困っちゃうか。やっぱある程度は意識しとったんじゃの?」


「そりゃまぁ、なんだかんだえるふって見た目はちゃんと美人だし。俺も男だし。多少見た目は押さなくても本能的になぁ。でもなんかこう、そういうのは恋人同士じゃないと良くないような気がするってのもあってさぁ。あとお前なんかしたろ」


「うん」




 やっぱりな!




「てってけてっててーててー、『カルガルガム』ぅ! これを噛んどる間は軽々しくいろいろ口に出してしまうのじゃ!」


「殺すぞ」


「おおっと、軽々しく口にしちゃってるのぅ」


「これはガム噛んでなくても言ってる絶対」


「ちなみに味がなくなるまで出せんから」


「殺すぞ」




 吐きだそうとするがほんとに出せない。物理的なものじゃなく出そうという行動自体がインターセプトされて気が付いたらうやむやになってしまっている感じだ。




 そっちに気を取られているうちに、気が付けばえるふに諸々聞きだされている俺がいる。




「さっきの流れでの? もしの? ほんとに抜き差しならなくなったらどうするつもりじゃった?」「たぶん抜き差しならなくなってたと思うけど、そうならなくてよかったと思う」


「えー? なんでじゃ? ええじゃないか据え膳上げ膳」


「そういうのは恋人同士でこう、心が通じ合ってからほら」


「そんな悠長な具合でないエロゲとかおぬし一杯やっておろうに」


「お前フィクションじゃないじゃん。実在してるじゃん。混同できねぇよ」


「うぃひ、うひひひひ。これええのう。最高」


「殺す」




 ああもう。自分でもわかる。顔が真っ赤だ。目を伏せて、そっぽを向いても、一々えるふは回り込んできて、目を合わせて聞いてくる。




 というか、聞き出してるこいつもよく見たら耳赤いんだけど。




 なんなのこれ。




「なんじゃ。決してあれか? 悪くは思っておらんということでええのかの?」


「最初よりは」


「今、いろいろ聞かれてどう思っとる?」


「恥ずかしくて思わずお前を車道にドンしそう」


「わかっとろうが、儂も結構悪く思っとらんぞ? その辺どうじゃ」


「わかんねぇ」


「わからんことなかろう」


「なんでなのかが、わかんねぇ」




 突然隣に表れて、なれなれしくて、隙だらけで。


 なんで、俺なのかが、わからない。




「なんで俺なんかなんだ、って、思ってる」


「……気になるかの?」




 耳を。メガネを掛けて、はっきりわかる、人より長く、今真っ赤な耳をぴこぴこ揺らして、えるふが俺の目を見る。




「んー! そっかー! 気になっちゃうかのー! 儂がおぬしのことどー思っとるのかもー気になって仕方が無い子ちゃんなのかの! うーんそんなに? そんなに? 聞きたい? 聞きたいのかの?」


「あ、ガム出た」


「待て」




 途端に空気が凍る。




 えるふが見たことない真顔になってる。




 たぶん俺も。




「空気読まんか」


「他に言いたいことは?」


「謝るからひどいことせんで欲しい。ごめんなさい」




 それで許されるとでも思っているのだろうか。




「……ツタヤよって帰るから、レンタル代お前な」




 それだけ言って、俺はえるふから目をそらす。さっきまでのことは無かったかのように。えるふもまた、同じようにしていた。




 横断歩道の向かいを見れば、アスファルトから陽炎が立ち上がって揺れている。ゆらりゆらりとふるえるそれは、ほんとはありもしないもので、今しか見えないもので。




 きっとこの時間も同じようなもので。




「のうのう」




 えるふが俺の袖を引く。




「儂の見たいのも借りていい?」


「いいけど」




 陽炎に手を伸ばして、現実に触れてしまうように。




「今晩は俺の借りたやつ一緒に見ろよ」




 本当の、核心の、いよいよのところに駒を進めてしまうと、きっと何かが変わってしまう。そんなものだという確信が、なぜか湧き上がっていた。




 嘘で本心や現実を隠して、まどろみの中に身をゆだねようというのは、甘くて、抗いがたい誘惑だ。自分にそうするだけでなく、時に誰かに虚言を弄してでも、蜃気楼の幸せを追いかけてしまうのは、子供じみた欲望だろうか。




「……それは今晩は一緒におれということかの」


「……」


「ん? んん? おお? いまガム噛んでおらんぞ! おおっと! ルート入ったかの?」


「…………」


「なんじゃ無口になって照れよってからに愛いの! 愛いのぅ! ええぞ! 今日は奉らなくとも許す! ふぅはははは! エルフ大勝利! 人間なぞこんなものよぉ!」




 しかし、こうして嘘をつくまいと口をつぐむのは、大人の配慮という物だろう。




 沈黙は金。まさしく大人の金言ではなかろうか。




「ようし今晩は一晩中付き合ってやるからのぅ!」




 ちなみに。




「ああああああああああああああああああああああああああ! なんで人間はゾンビとかエイリアンとかこんなにたくさん想像できるんじゃ下等種族がぁあああああああ! 趣味悪いのじゃグロイのじゃ血とか出さなくてもよかろうがああああああ!」


「ほら。一晩付き合ってくれるんだろ。嫌なら帰ってもいいけど」


「嫌じゃ怖いのじゃ一人になったら死んじゃうのじゃ思ってたのと違うのじゃあ! たばかりよって下郎!」




 えるふがホラー嫌いなのは、ついこの間ぺらぺら向こうから喋ってくれていた。




 やはり、沈黙は金。

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