2 かおちゃん

「――まりもっ!」

 切り裂くような声とともに右肩に抜けるような痛みが走る。足がもつれて、バランスが保てなくなって、その場で崩れ落ちた。

 廊下の冷たい材質に拒絶されているように感じる。

 はぁはぁと息を上げたまま、かおちゃんがしゃがみ込む気配がした。顔なんて見れない。醜い。わたし、いま、すごく醜い。

「まりも、あんた意外と足速い……」

 視界が揺らいで落ちていく。泣いていい立場じゃない。わたしが泣くようなことなんて何もない。それなのに、止まらなかった。

「まりも」

 がつっと、両肩を掴まれた。揺さぶられる。顔を、あげられない。

 しばらく揺さぶっていたかおちゃんが、少ししてため息を吐いた。呆れられている。怖い。

「ねぇ。――とりあえず、ちょっと落ち着こう」

 ゆっくりと、腕を引いて立たせてくれる。どうして、優しくするんだろう。しんどい。今は放っておいて欲しかったのに。

 それなのにその優しさを、その手を、振りほどけないのはわたしの弱さだ。

 連れられるがまま、歩いていく。校舎の隅、あまり使われていない移動教室の側の廊下でかおちゃんが座った。

 灰色の廊下に、二人分の影。

「座って」

 促されて、どうしていいか迷った挙句に結局座ってしまった。何も考えられない。頭がごちゃごちゃしている。

 かおちゃんはしばらく黙っていた。あまりにもずっと黙り続けるものだから、どうすればいいのかまた分からなくなる。そのうち、チャイムが鳴った。

「一時間目始まったねぇ」

「えっ……」

 思わず顔を上げていた。涙でぐしゃぐしゃになったまま。HR、始まったチャイムも聞こえなかったのに。

 かおちゃんがふっと笑った。

「ぱんだ」

「え……?」

「ほら、使って」

 ポケットからティッシュを出してくれた。慌てて目元を抑えると、確かにマスカラが落ちたあとがある。それよりも、涙のほうが気になったけれど。

「やっと、顔上げてくれた」

「……ごめんなさい」

「ん。――話してくれる?」

 かおちゃんが微笑む。

 なんで、かおちゃんは、こんな時まで優しくしてくれるんだろう。わたしに、そんな価値なんてないのに。

 そう思ったのに、でも、またその優しさに甘えてしまった。

「初めて知ったのは、かおちゃんと画材を買いに行った日なの」

 ぽつり、ぽつりと、わたしは話し始める。

 マニキュアの雨が降ってきて出逢ったこと。

 ゼンくんのこと。れいちゃんのこと。FIRE*WORKSのこと。

 マスターのこと。相葉さんのこと。相葉さんが撮った写真のこと。そこに使う小道具に絵を描いてほしいと頼まれたこと。ゼンくんたちに刺激されて服を買いに行ったこと。マニキュアも買ったこと。

 自分が、変わりたいと思ったこと。

 お化粧を、マニキュアを、ゼンくんに教えてもらっていたこと。

 わたしの話はあっちこっちに飛んで、時々綾乃のことまで話しちゃったりして、時系列だってばらばらになっちゃって、正直分かりづらいことこの上なかったと思う。でも、かおちゃんは「うん」「そっか」「で?」と、ただ静かに相槌だけを打って聞いてくれた。

 そして、先日ようやくできた絵を、預けに言ったところまで話したところで、かおちゃんが「そっかぁ」と、大きく息を吐いた。

「いろいろあったんだね」

「うん」

「話してくれなかった」

「……ごめんなさい」

 かおちゃんは一瞬だけ目を伏せて、微笑んだ。少しだけ、悲しそうに。

 かおちゃんの白い手がゆっくりと組まれて、ぐっと腕が前に伸びる。

「見たかったな、まりもの絵」

 伸びをしながら、かおちゃんが言う。

「あ……お、終わったら、あの」

「ううん。一番最初に見たかったの」

 ふるふるっと首を横に振って、かおちゃんは目を細める。視線はまっすぐ前を向いているのに、廊下の壁を見ていないと思った。それよりも、ずっと遠いどこかを、見ている気がした。

 ゆっくり、かおちゃんは膝を抱えた。

「もう、無理だから」

 責めるわけではない声音で、呟かれた言葉。事実を漏らしただけのようなその音が、その分だけ痛々しく感じた。

 何も言えない。そうだよ。ずっとわたしの絵を一番に応援してくれていたのはかおちゃんだった。中学に入って、おどおどしながら絵を描いていたわたしに声をかけてくれて、一緒に美術部に入ってくれたのもかおちゃん。部内に馴染めずに先に辞めたわたしを責めもせず、それからもずっと絵を一緒に描いてくれたのはかおちゃん。わたしがおかあさんのことで落ち込んでいた時も、おとうさんと喧嘩して腐った時も、いじめられてひとりぼっちになりそうなときも、かおちゃんは傍にいて、いつだって、絵を、わたしを、好きだと言ってくれていた。

 それなのに、大事な時の絵をわたしはかおちゃんに見せなかった。

 なんて、自分勝手なんだろう。

 しばらくかおちゃんは黙っていた。きゅっと口を引き結んで、体育座りをした自分の膝を抱えながら、まっすぐ、前を見つめていた。

 時間が痛い。

 じりじりと焦げていくような時間が過ぎていく。

 しばらくして、ふぅっとかおちゃんが息を吐いた。

「まりも」

 かおちゃんがゆっくりとこっちを向いた。泣き笑いのような顔で、わたしを見つめている。

「まりもは、野木が好き?」

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