第四章:影

1 秘密

「え、野木?」

 誰かの声が、くぐもって聞こえる。プールに沈んで聞く外の声みたいに。

 ゼンくんは無言で自分の席に行くと、どさりとリュックを下ろした。何を考えているのか分からない表情は、教室でいつも見るゼンくんの横顔だ。

 だけど今日は、まつげも上へ伸びているし、眼鏡もしていない。

 ぽつり、ぽつりと、誰かが囁くように噂する声が聞こえ始めた。

「なにあれ」

「野木?」

「男子だよね」

 囁き声だけがさざ波のように響き渡るのに、誰も、直接聞かない。ゼンくんも、そのまま普段通り窓の外を見ている。

 誰かが動く気配がした。みんなが息を止めてみる。和久井くんだ。いつもちょっとだけ怖い顔をしている、でも整った顔で女子にも人気のある和久井くん。無造作に、ゼンくんに近寄っていく。

 ゼンくんが和久井くんの気配に気が付いて顔を向ける。一瞬、ぞくりとするような冷たい目が見えた気がした。口元が歪に笑みをかたどった。

「ゼン」

「なに?」

 周りの皆のほうが、たぶん緊張していた。どうするんだろう、って。でも、和久井くんはそのまま、ゼンくんの前の席にどさっと腰を下ろした。

「英語やった?」

 ゼンくんが、きょとんと、目を瞬いた。

「えーご?」

「うん。テスト明けに回収するって言われてた英作文の奴」

「あー、やった、けど」

「ちょい教えて」

 もはやゼンくんのほうが面食らっている。和久井くんはノートを取り出して、普段と同じようにかりかりと首をかく。

「――じゃなくって」

 つられてノートを取り出していたゼンくんが、そのままそのノートで和久井くんの頭を叩いた。

「いて。何すんだ」

「じゃなくて。言うことあるだろ、他に」

 眉をしかめるゼンくんを、上から下まで眺めて、和久井くんはぼそっと言う。

「トンチキな恰好してんな」

「……とんちきて、お前なに時代の人間……」

 ゼンくんががくりと頭を落とす。

「いや、別にどうでもいいし、俺」

「そうかよ」

 和久井くんとゼンくんのやりとりに、ちょっとだけほっとしたのもつかの間、誰かの声が飛んできた。

「きっも」

 短いのに痛い言葉。

 半笑いの囁き声がそっと広まる。ゼンくんがゆっくりと教室を見渡した。冷たい、いつもじゃ考えられないような、目をしていた。

 その目が、わたしを捕らえる。

 口元だけの、笑顔。

「まりも」

 いつも通り呼ばれただけなのに。

 ――どうしてわたし、こんなに、泣きそうなんだろう。

「その様子だと、誰にも言ってなかったんだ?」

「そっ……そそ、それは、だだって」

 消え入りそうな声しか出てこない。だってそれは、言っちゃいけない。ゼンくんの、秘密で――

「おれ」

 静かな声が、わたしを遮った。

「秘密にしてって、言った覚えないんだけどね」

 頭を殴られたかと思った。

 目の前の景色が、一気に色を失っていく。いろんな言葉が脳内を駆け回るのに、どれ一つとして形にはならない。ぼんやりとただ頭が熱くなっていく。でも、その中心だけは、冷え切っているかのようだ。

 足元が、崩れていく。その感覚に耐えられなくて。

「……まりもっ!」

 かおちゃんの手を、声を振り切って、走り出していた。

 教室を飛び出して。

 ――逃げ出したんだ。

 

 秘密にしてなんて、ゼンくんは一度も言っていない。

 秘密にしたかったのは、わたしのほうだ。

 勝手に、ゼンくんの趣味を恥ずかしいものだと思い込んでいた。

 言ってはいけないことだと決めつけていた。

 だってあんなのは、特別なことだからって。

 だから、特別なことを知った気になって。

 特別を受け入れている自分に酔って。

 特別を受け入れられる自分を特別だと思って。

 それを、後生大事に、勝手に温めていた。

 ゼンくんは言っていたのに。好きなものは好きでいい、と、言っていたのに。

 ゼンくんは、それを、見抜いていた。

 わたしの浅はかさを、醜さを。

 ゼンくんは、見抜いている。

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