8 なんか、消えたくなっちゃって

 こんな時間に?

 見ると、かおちゃんだった。

『ねーれなーいー。まりも起きてたりしない?』

『しないか。ごめんね、おやすみー』

 立て続けに送ってきている。

 ……せっかち、だなぁ。

 ふふ、とちょっと笑ってしまって、スマホに指を走らせる。

『起きてるよ』

『雨、降ってるよ』

 返すとすぐ、またスマホが震える。

『え、起きてた! びっくり!』

『雨?』

 ことん、と首を傾げたスタンプが送られてくる。

『うん。霧雨。気持ちいいよ』

 何の気なしに送ってから、あ、と思った。案の定、どんな早業で入力しているんだろうと思うくらいの早さで返信が来る。

『は? どゆこと? 外いるの?』

 あー、やっぱり。どうしよう。ごまかそうか。

 そう考えたのだけれど、なんだかそうする元気もなかった。うん、外にいる。とだけ返事をする。

 少し迷って、消えたい、と文字を打ったけれど、入力する前に消した。

 そんなこと言われたって、かおちゃんだって困る。言ったって、どうしようもない。実際に消えるほど、そんな勇気だってないんだから。

 返信が来た。

『いく。』

 ――え。

 思わず固まってしまう。いく。行く?

 こんな真夜中に呼び出していいはずがない。慌てて何度もスタンプやらかおちゃん、と呼びかけやらしてみたけれど、そこからは既読もつかなかった。

 どうしようと呆然とするしかなく、ただただ雨を全身で受け止めて。

 そして。

「まりも! どした!」

 自転車に乗って息を切らせたかおちゃんが現れた瞬間。

 わたしは笑って。笑って。

 泣くしか出来なかった。



 アパートから少し離れた遊歩道に移動して、その脇にある東屋に入ったら、もう雨はただ目の前を煙らす事象でしかなくなった。

「ほい」

 すぐそばの自販機で買ったなっちゃんのリンゴジュースを、かおちゃんが手渡してくれる。

 キャップを開けて口に運ぶと、甘酸っぱさが体の真ん中を過ぎていく。

「で、どしたのー」

 いつも通りのさりげない口調でかおちゃんが訊いてくる。でも、分かるよ。ほんの少しだけ音がいつもより高い。気を使って、いつも通りのふりをしてくれている声。

「うん。ごめんね。……なんか」

 わたしバカだから、今日のことを話すと全部話してしまいそうになる。昨日のことから全部。あのカフェのこと。野木くんのこと。でもそれは、なんだかダメな気がした。野木くんのことを、わたしが勝手に言っていいはずがない。だからといってここまで話してここは話さない、なんて器用な真似ができるほど賢くもない。

 結局、隠すことになってしまう。

 せっかく、来てくれたのに。

 かおちゃんはいつもみたいにお化粧もしていない。すっぴんで、ヘアバンドで前髪を持ち上げていて、ジェラピケにロングカーデを羽織っている。

 そんな恰好で、自転車にまたがってきてくれたのだ。

 わたしなんかのために。

「なんか、ごめんね。うまく、言えないんだけど……なんか」

「うん」

「なんか、消えたくなっちゃって」

 ぽつり、と言葉が落ちてしまった。でも落ちた言葉は地面に跳ねて、雨粒みたいに消えてくれはしない。

 ただじとっと、わたしの足元にまとわりつく。

 笑われるかな、ううん、かおちゃんなら真剣な顔で心配するかな。落ちた言葉の先にある靴の先をじっと見つめていると、静かな声が答えてくれた。

「あるよね、そういうの」

 思わず顔を上げる。かおちゃんはさっき一緒に買ったオレンジジュースを飲みながら、ちいさく笑っていた。

「あるある、そういうの」

「……ある、の。かおちゃんも?」

「あるよ。ないとでも思った?」

 思っていた。かおちゃんは、明るくて元気で、優しくて。悩みなんてなさそうにさえ、見えたから。

 ――ああ、そうか。馬鹿だなぁ。わたし。

 悩みがない人なんて、きっといないのに。

 急に目の前にチカチカと、いろんな光が現れた気がした。赤青黄色水色白黒浅葱色韓紅。

 さっき、綾乃に対して感じた気持ちも、野木くんたちに感じた嫉妬も、たぶん、そこがすぽっと消えていたからだ。

 同じように悩んだりすることがないと、勝手に思っていたから。

「今日だってそうだよ。全然うまくいかなくってさー。やめやめーってベッドもぐったのに、全然ねれないのー。マジなに意味わかんなーってもぞもぞスマホいじっちゃったん」

 へへっとかおちゃんが笑う。恥ずかしそうに頬を赤らめて。

「……上手くいかないって、絵?」

「も、ある。最近、また新しいの描いてるんだよー」

 にかっとかおちゃんが笑う。きらきら。わたしには出来ない笑顔。

「かおちゃん、すごいね。絵、好きなんだね」

「はへー? まりもだって絵好きじゃーん?」

「わたしは……ただ、描いてるだけ」

「いや待って意味分かんない。あたしだって描いてるだけじゃーん?」

 かおちゃんが思いっきり眉を寄せている。

「えっと……」

「あー。分かっちゃったー。まりもさー、絵、描くことなんか特別だとでも思ってるー?」

 特別。そうだろう。わたしにとってはただの落書きでも、それを生業にする人もいる。それですくわれる人もいる。

「あんなん、ウンコだよウンコ」

 ……う?

 あまりの言葉に絶句して、かおちゃんを見つめてしまった。かおちゃんは可愛らしい恰好で、オレンジジュースを振り回しながらけたけたと笑った。

「ウンコー。ウンコしないと人間具合悪くなるじゃーん。そゆもんそゆもんー。あははっ、あたし今ちょー便秘ってだけー」

 かおちゃんは、きったねー、って自分の言葉に自分で笑って。それから、ふっと真面目な顔をしてわたしを見つめた。

「消えないでね」

「……かおちゃん」

「あんたにとってはただ描いてるだけでも、あたしはまりもも、まりもの絵も好きだよ。あんたが便秘って描けなくなったって、あんた自身が好きだからね」

 好きだよ。

 いつだって、かおちゃんはそう言ってくれる。

 だけど今夜のこれは、特別だった。だってこんな真夜中に自転車飛ばしてやってきてくれる友達の言葉に、嘘なんて、お世辞なんて、かけらもないって思えたから。

「ありがと」

 学校という空間じゃなきゃ、かおちゃんと向かい合ってだって話せる。こんな真夜中の、こんな辺鄙な遊歩道脇の東屋でだって。特別を語らえる。

 霧雨の中、かおちゃんがニカっと笑う。

「また、描こう。一緒に」

 じっとりとした雨の夜の空気を肺いっぱいに吸い込んで、出来るだけ不自然にならないように笑顔を向けて、頷いた。

「うん」


 その夜で特別何かが変わったわけじゃない。

 でも、その夜はあの日の朝と同じ心の中の宝箱にしまった。

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