7 わたしたちは、わたし以外の誰かになりたい生き物でしかないんだ。
「……あやの」
「ごめん」
ベッドに突っ伏していた綾乃が、ぽつん、と雨粒の最初の一滴みたいな声でささやく。
「おねえちゃんは、いいな」
「……え?」
絞り出された綾乃の声に、思わず眉に力が入る。
「おねえちゃんはいいな。頭もいいし、料理も出来るし、絵も描ける」
ばかばかしい。どれも全部中途半端だ。進学校ではあるけれど、始まったばかりの学校の授業についていくのだって精いっぱいで、ゼンくんみたいな余裕もない。料理だって、出汁を取ったりにんにくを刻んだり、そんな風に丁寧に作れやしない。時間に追われて炒めるばっかり。それに。
「絵、なんて、どうでもいいよ」
「よくない!」
叫んで、綾乃が顔を上げた。
「おかあさん、おねえちゃんの絵、好――」
「わたしは」
綾乃を遮って、笑った。
「綾乃がいいなぁ」
「……なんで」
「お母さん似で可愛いし、誰にでもやさしいし、ちゃんと気を使える。友達も多い。一度もいじめられたりしていない」
「それは……」
綾乃が傷ついたように俯く。そうなることを知ってて、言った。わたしが小学生の頃も中学に入ってからも、いじめられていたことを綾乃は知っているから。
綾乃は黙りこくったままのそっと起き上がって。それからずるずるとわたしに寄ってくるとその小さな手を回して抱き着いてきた。
分かってる。綾乃だって不安なんだ。受験生だもんね。
ぽん、ぽん、と背中を叩いてやる。
結局、わたしたちは、わたし以外の誰かになりたい生き物でしかないんだ。
このごちゃごちゃした色の溢れる世界で、自分というものが全然分からないから、仕方ないのだけれど。
そんなことを考えたとき、ふいに頭の中にゼンくんの顔がよぎった。
ああ、とうめいな風。
こんな色があふれる世界でも、あのとうめいさのままでいられるのは、どうしてなのかな。誰にも縛られていない、自由気ままな猫みたいに生きている。
会いたいな、と、少し思った。
◆
眠れなかった。
夜中一時半。綾乃もお父さんも眠っていて静かなうちの中で、そっとベッドを抜け出した。パジャマ代わりのTシャツとユニクロのリラコのまま、上から春先によく着ていたロングカーディガンを羽織る。
スマホだけをリラコのポケットにねじ込んで、息を潜めてゆっくりゆっくり玄関の鍵をあける。
カチ、と小さな音。少し、止まる。耳を澄ませても、物音一つ聞こえない。ほっと短く息を吐いて、またゆっくりと玄関を押し開いて外に出た。
アパートの外階段に出て、音を立てないように戸を閉める。
ふわっと、ぬるい夜風が前髪を揺らした。
雨だ。
雨の匂いがする。じとりと湿った、ぬかるんだ土の匂い。茶色と、灰色と、一滴だけの黄色が混じったみたいな匂い。
階段を降りて外に出ると、霧雨が降っていた。音もなく、ただやわらかに、世界を濡らしている。わたしを濡らしていく。
ほっとする。
ほっとして、泣きたくなる。
不平等だな、と、思う。頭の中がぐちゃぐちゃだ。そっと指先を見つめても、もうそこには青空はない。寝る前に、と、落としてしまった。寂しい。寂しい。寂しい。
うちはこんなに狭いアパートで、お母さんは亡くなって、お父さんはサラリーマンで、わたしはかわいくもなくて、人より秀でたものなんてのもなくて、綾乃は勉強が出来なくて。
地に足と泥とをつけた現実をなんとか歩いているのに。
眩しすぎたんだ。
真っ白な壁のアートカフェ。芸術の世界を当たり前にしているひとたち。お店をやるほどのお金持ち。その娘さん。障害者なのに、全然気にしてなんてなさそうな人。そして男の子なのに、とびきりかわいい人。
同じ世界にいるはずなのに。全然、違う。
羨ましい? そんな言葉すら嘘くさくなる。だって、違いすぎる。
濡れそぼって空を見上げて、こんな真夜中に佇んでいる。
どうしようもなさに泣けて、笑えてくる。ああ、消えたいな、って思った。
でも。
消える前に一瞬でいいから、鮮やかに咲きたいって。
花火のように誰かの目を鮮やかに楽しませて、それから死んでいきたいって。
そう思うのは、ぜいたくなんだろうか。
指先を見つめる。
この指先から紡がれる、たいしたことのないただの絵では、きっとそれも叶わないのだ。
かすかに震える指先を握りこもうとした時、だった。
ポケットの中でスマホが震えた。
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