第4話 例えばこんな日常、忘れた思い出

 まだ聞き慣れない名前や声が教室で行き交う。

 高校1年生の春ももうすぐ終わる頃だった。

 自分はスタートダッシュが遅れて見事に孤立。


 皆はもう一緒に過ごしたいと思える人を見つけて、一緒に時間を共有して行くんだと安心して輝かしい未来に花を咲かせる。


 俺以外に孤立しているクラスメイトはいないらしく、俺は誰とも話すことなく面白くもない本を読むことで、一人でいる時間も悪くないと誤魔化す。



 そんな中、とうとう俺に話し掛ける者が現れた。



「おはよう。高梨君…だよね?何の本読んでるの?」



 俺はビックリして本から顔を上げた先にあるのは、可愛らしい、とは言いきれないが少し大人びていて、でも声が鈴のようによく通る女性だった。


 少し大人びているからこそ、そのおどけた口調が見かけとのギャップを生む。腰まではいかないだろう1本1本手入れが行き届いている黒髪がぱさりぱさりと顔が動く度にそれに動じて揺れる。


 心が惹かれながらも、彼女の頭髪のように揺れる想いを抑え、やっとの思いで返事をする。



「お、はよう。あっ、てるよ」



 返事と言えたか怪しいその応答にニコリと笑ってくれるそのクラスメイトは、実は今自分のクラスに居るからそう認識しているだけでクラスメイトかどうかすら怪しく、自分は凄く困惑した。


 名前が分からないのだ。それを伝えていいものかどうか悩む。


 名前、なんだっけ?なんて無神経な質問をすれば相手を傷付ける可能性があるためだ。


 無神経な人だと思われたくないし、何より、どんな些細なことであっても、教室で一人でいる俺に話しかけてくれる彼女に嫌われるのはもっと嫌だった。



「そっか!よかった。それで何の本呼んでるの?」


「『ワイシャツの襟元』って作品。…知ってる?」



 この名前もクラスメイトかもわからない女性に見とれてしまい、つい先程までに読んでいた本の内容やタイトルまで忘れてしまいそうになった。



「あっ!それ知ってる!近々映画化するんだよね〜?」


「そ、そう!近々映画化するんだよ。だっ、だから小説で読んでから、それで、観ようかな、って。」


「へぇー!映画も見る予定なんだね〜。小説を先に見てから映画か〜。ふむふむ、今度私もしてみようかな?」


「う、うん。いいと思うひョっ!小説で細かに美しく、描写されていたり、描かれる…けっ、景色はッ!映画とはみャ…、また違った良さを感じさせてくれ、…るんだよ!」



 途切れ途切れではあるが、噛まないよう気おつけて話す。

 しかし、実際それでも噛んでしまい、そのことが相手にバレていると思うと凄く恥ずかしく、きっと今俺は顔を林檎のように真っ赤にさせているだろう。



 今自分が読んでいる作品は有名で著者は名も広く、沢山の名作を生み出している。


 自分と彼女の中に確かに共通の話題が出来たようでその事に歓喜する。



「ねぇ、その本さ。読み終わったらでいいんだけど貸してくんない?だめかな?」


 お願いと、少しかがんで顔の前に両手を合わせて拝むようにして可愛らしく頼みこんでくる。

 前のめりに屈むことで自分との距離は数秒前と違って近くなる。

 俺は真正面からじっとみて、少し長いまつ毛や、形のいい唇等がよく見える。

 ハッとした俺はつい早口で慌てながら返事をした。



「いっ!いいィっ!、いいよッ!」


 噛んで震えて、最後まで口に出せた。

 先程と違って、噛んだことに恥ずかしさはあまり感じられない。


 これからも彼女にがある事に俺は喜びの感情を噛み締めて、心が震えているためだ。それが唇に出ているだけにすぎなかったからだ。



「へへっ、ありがとう!じゃっ、読み終わったら教えて!」



 照れくさそうに感謝の気持ちを伝えてくる彼女。結局最後まで名前は分からなかった。


 だが、その彼女の後ろ姿をいつまでも眺めていたら、クラスから出ていたっきり帰ってこず、ホームルームを知らせる鐘がなったので他クラスの生徒だったことを知る。


 そんな些細な情報を知れただけで言葉に表せぬ幸福感が自分を包んだ。

 この日の学校は一日中何をしても楽しい、面白いと感じることができた。


 ふと気づいた。

 面白くないと感じていた本が、今では全くそのような風には思えず、凄く魅力的なものに思えたのだった。

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