07▶倒叙の契約

 骨さえ砕けそうな馬鹿力が、身体を壁に張り付ける。思えばそれは、人生初の壁ドンというやつだったが、そんな事を考えてる余裕など、どこにもなかった。


「っあ、……ぐ、」


 強制的に、呼気が絞り出される。突き飛ばされた拍子に切ったのか、よせと叫ぶ星浪のこめかみからは、ひとはけの血が流れていた。

 獣のような荒い呼吸が口元に触れる。ぐらぐらと揺れる瞳の色は、血のような紅。


「ーーっ、まひ、ろ、ちゃ、」

 

 苦しい息の中で、彼女の名を呼ぶ。断ち切られた理性は、彼女から人間であることをすっかり奪ってしまったらしい。


「人間は雑食だから、おいしくないーーッ、て、ぇ」


 語尾が、痛みに跳ねる。猫のように擦り寄ってきた雪色の頭は、血に濡れた二の腕に容赦なく触れていた。

(あ、喰われる)

 匂いを確かめるような仕草に、百々は咄嗟に片方の手でポケットを探る。何故そうしようと思ったのかはわからない。ただの直感だった。

 

「ほら、こっちのほうが美味しいって痛でででっ」


 手探りで紙包みを開き、どうにかこうにか口にすねじこんだものの、指まで噛まれて悲鳴が上がる。幸い、噛み千切られる前に離されたーー異物でも口に含んだかのように、後ずさられたが。


「……毒?」


 口を抑えて固まった真宙を見て、星浪がポツリと呟いた。


「ただのチョコだよ!」


 慌てて反論するも、真宙は心配になるくらい動かない。

(もしかして、チョコが苦手だったとか?)

 だったら悪いことをした。

 こちらの視線を拒否するように、真宙は黙って背を向ける。ふらふらと壁に縋る姿は弱々しく、心配になった所で彼女はあろうことか、自らの頭を強く打ち付けた。とんでもない音がした。


「真宙ちゃん!!」


 なにしてんのと慌てて駆け寄るーー寸前で、星浪が前に立ちはだかる。

 百々の身体はあっけなく絡め取られ、気付けば床に伏していた。

 下がっていろ。

 威嚇するように星浪が唸る。自分を庇うように立たれてしまえば、百々の出来ることは確かに、大人しくしている事しかない。


「真宙」


 星浪の呼びかけに、彼女はゆっくりとこちらへ向き直る。その目は変わらず赤いままだったが、その表情には苦悶があった。理性が見えた。

 囁くように、青年は問う。

 ーーお前、人を喰った事は。

 きん、と空気が凍りつく音がした。


「……わかん、ない」


 何かを言いかけ、躊躇い、閉ざす。そうしてまた言葉を探す彼女の口は、陸にあげられた魚のようにはくはくと声にならない言葉を吐き出す。

 そんな真宙に、星浪は笑ったようだった。


「ばーか。そこはないって言っとくとこだろ」

「うるさい」

「まーいいさ。頑丈で図太くて面の皮も厚そうだしな、お前」


 風向きの変わる気配に、おや、と思う。

 居丈高な物言いだが、星浪の声音は随分と優しい。真宙の方に、それを感じとる余裕はないようだが。


「ごちゃごちゃ話してる暇、ないんだけど。そいつ連れて、はやく」

「俺と本契約しろ、真宙」


 焦ったような真宙を、星浪はひと息に遮った。

 思いもよらない誘いに、百々は成人男性としては小柄な部類に入るその背を凝視する。


 確かに、今の星浪に契約者ヨスガは居ない。


 美影千晶。


 半年前、およそ七年自身の相棒ヨスガを務めた青年の裏切りによって、彼は局を辞した。掃いて棄てるほどいた候補者、希望者すべてを袖にして、どんな誘いにも乗らなかった。

 それが一体どういう吹き回しか。

 

 カガリとなれる人間は、希少なのだ。

 望む、望まざるに依らず、生まれ持った血がすべてものを言う。

 だが一方で、自ら命核を捨て、ひとつの命しか持たぬ身体になってでも、契約者ヨスガの座を望む人間は後を絶たない。

 ヨスガに選ばれること。

 それは、絶対の守護を得る契約であると同時に、徒人が命喰いと戦う力を得る唯一の方法でもあったからだ。


「俺のヨスガになれば、お前は助かる。お前の飢え《それ》も、命管ウチの薬でなら抑え込める」

「その本契約ってのは、この取れない指輪と関係あるの」


 それがどれだけ貴重な誘いなのか知らない真宙が、嫌そうに、呪のアクセサリーがごとく左手を挙げてみせる姿は、ほんの少し愉快だ。

 そーだよと、星浪はなんてことないように答え、続ける。

 

「今、俺とお前は仮契約状態にある」

「なんで?」

「事故みたいなもんだ」

「事故って」

「とにかく! 俺は、お前に借りがある。命の礼だ。命で返すのが筋ってもんだろ」

「何言ってんのか全然わかんないんだけど」

「悪いが、それを説明してる暇はねーな」


 星浪の視線は、丸く穿たれた襖と窓ガラスーー正確にはその向こうに向けられている。

 射線を自らの身体で塞いでいたのだと、今頃になって百々は気づいた。


「そろそろ駆除課の連中も待ってらんねーだろ。そうなりゃお前に待ってるのは良くて監禁、悪けりゃ死だ」

「でも、」

「契約。するな?」

「…………」

「するよな?」

「………………わかった、する」


 悪徳セールスマンさながらの勢いに、真宙がついに押し切られる。不精不精といった体で頷いた瞬間、ぐりんっとこちらに向き直ってきたその勢いに、百々は思わず半歩、引いた。

 

「名前は」

「えっ、あっ僕? や、夜兎百々です」

「やと、もも。やともも。ーーおっけ」

「あの、何が、」

「うーし夜兎百々、お前が立ち会いだ」

「は? ーー痛ったァ!」


 ぐい、と腕を掴まれ、思わず叫ぶ。


「あ、悪い」

「なんなんですかもう……」


 今頃離された所で、痛みは残る。恨みがましく視線を送った百々をまるで無視して、星浪は勝手に互いの位置を調整した。

 お前はこっち。お前はそっち。 

 例えて言うなら、自分は神父で、星浪と真宙はカップル。そんな位置だ。


 一体何を始めるのか。緊張する百々の前に、星浪は流れるように膝をついた。


「吾が名は星浪。人魚の仔の御前にて約定する。彼の者と共に、骨が人魚を穿つまで」


 そう言って星浪は、同じくぽかんと立ち尽くす真宙のスカジャンの裾を、ぐいと引く。倣えという視線に、真宙は慌てたように膝を折った。


「あのう、」

「黙ってろ」


 無声音で叱られ、百々は口を閉じる。一人どころか二人、並ぶつむじを見下ろす図だ。正直めちゃめちゃ気が引ける。

 どうしたら。

 こちらの困惑をまるで無視して、星嵐は、真宙になにやらこそこそと耳打ちする。少しして彼女は、緊張した面持ちで口を開いた。


「わ、吾が声を以て約そーー」

「約定」

「約定する。彼の者と共に、血が海に熔けるまで」


 真宙の誓句にうん、と頷いた星嵐は、地面に落ちていたガラスの破片を拾いあげると、真宙に差し出した。


「昔話は知ってるな?」


 その一言で、ピンと来た。

 まさか、と口にした百々に、星浪は事も無げに頷いた。


「……あの、何の話?」

「察しが悪いやつだな。こいつ俺を殺すんだよ。それで契約は完了する」

「は?」

「安心しろ。ここ狙えば割と一瞬でイケるから。あ、手ぇ切らねーように気を付け」

「ちょっと待ってよ、そんなことしたら死んじゃうじゃんか」

「何言ってんだ。俺はカガリだぞ。死んでも死なない。そういう身体だ」

「…………本当に?」

「あぁ、戻るよ。お前が呼べばな」


 ほら、と差しだされた破片を真宙はこわごわと受け取るが、動こうとはしない。


「…………分かった。俺がやるから、お前は目ぇ瞑ってろ」


 埒が明かないと判断したのだろう。星嵐は破片を握るその手を自ら、首元に導く。


「いや、いい。……やる。だから、そっちが目を瞑ってて」


 ここだよねと確認する真宙に、星浪は頷く。そのまますぱりと、存外手際よく彼女は星浪を殺しーー


「ーー動くな、大人しく投降しろ!」


 最悪のタイミングで、その声は割って入ってきた。


 うわ、と振り向いた先には完全武装の警備部の面々。突きつけられた銃口に、百々は弾かれるように両手を挙げた。


「あの、これはーー……っわぶッ」

「被害者確保!」


 誤解ですと、靴のまま踏み込んできた彼らに弁明しようとした所で、百々の身体は文字通り引っこ抜かれる。

 この騒ぎがまるで目に入っていないのか、虚脱したように、真宙は星浪の身体を抱いて、動かない。

 

「星浪さん!!」


 先陣切って飛び込んで来た男が、首から血を流す星浪と、真宙の手に握られたままのガラス片を見て、怒りに吠える。


「違うんです、これはっーー、けいやくでっ、契約なんです!! おれが立ち会いでっ、そうしろとーー星浪さんにっ」

「…………せいらん」


 ぽつりと、真宙は呟いた。星浪の血で染まった指先で、頬に触れる。

 ーー戻ってくるんでしょ。ねぇ。

 震える声が、何度も何度も、星浪を呼ぶ。

 だが、星浪は答えない。帰らない。

(本当に死んじゃった、とか……ないよな?)

 不安は、今やむくむくと膨れ上がって胸を食い荒らしていた。

 青年がまだ戻れる身体であったことは、百々だって見ている。だが、万が一ということも、ある。


「ふざけるな! はやく離ーー」

「あんたが言った! 呼べと、呼んだら戻ると! 言ったんだから守りなさいよ!! 聞こえないの!? さっさと戻って来なさい、このっ……馬鹿星浪!」

「星浪さん!!」


 本当に、死んでしまったのではないか。

 そう、諦めかける寸前で、ようやく星浪は目を開けた。


「……馬鹿は、余計だっつーの」


 けふ、と軽く咳き込んで、身を起こす。

(助か、っ……た)

 安堵に、百々はへなへなと崩れ落ちた。


「……おそい」

「悪かったよ。次は急ぐ」

「急がなくていい。ーーこれ以上、死ななきゃいいの」


 真宙の言葉に、星浪は一瞬だけ、虚を突かれたような顔を見せた。


「星浪さん、離れてーー」

「離れるかよ」


 先ほど吠えた男の声に、星浪はまごつく真宙の肩をぐいと引き寄せる。


「こいつ、俺のヨスガにしたから」

「………………は?」

「とにかくそういうことだから。お疲れさん」


 帰っていいぞと、もう片方の手をひらひらさせる星浪に、ひとつの群体のようだった部隊が、ざわざわと割れる。狐につままれたような面々に、百々は少し同情を覚えた。


「……その娘は、命喰いではなかったのですか」


 喰い下がるような言葉に、星浪の瞳が、すぅっと冷める。


「だったら何だ。散々ヨスガを選べと言ってきたのはお前たちの方だろう? 玖蘭くらん

「ですが、我々は!」

「いつまで俺のヨスガに銃口を向けている」


 有無を言わせぬ物言いに、反駁した男は口を引き結んで片手を上げる。

 ハンドサインに従い、皆銃を下ろしたが、その空気は銃を構えている時よりも最悪だった。


「…………星浪」

「なんだ、どうしーーおい?」


 くたりと、糸が切れたように真宙が崩れ落ちる。支える星浪の腕の中、その目が、自分を見たような気がして、百々は拘束を振りほどいた。


「真宙ちゃん! 大丈ーー」


 ぎゅるるるるるる。


「………ん?」


 その音は、切なく、苦しくーーそして空気を完全にぶち壊す。

 

「おなかすいた」

「ごめん、手持ちのお菓子もうアレしかない」


 素直に答えた百々に、真宙はがーんという顔をしてーー今度こそ正しく、意識を飛ばす。

 思えば、ガス欠の身体でここまでよく保ったほうだ。


「とりあえず、妻木んトコ連れてくか。お前」

「百々です」

「百々、こいつ抱えられるか」

「全然いけますけど。ーーいいんですか?」

「俺だと汚すだろ」


 命は戻っても、流した血は戻らない。

 活きのいい死体のようなその姿を、ジャケットで隠した星浪の後を、百々は追う。


 背負った身体は、信じられないほど軽かった。

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