06▶片鱗

 第一線で戦い続けた英傑のひとり、土岐家の星浪。短く刈り込まれていた黒髪は、耳にかかるまで伸び、ふわふわと跳ねて、彼を以前よりずっと若く見せていた。

(ってか、ほんとに若返ってない?)

 活躍からして三十は下らない筈なのだが、学ランを着てたって違和感がないかもしれない。よく似た別人じゃないよねと、百々はその顔立ちに目を凝らす。

 だが、うっすらと右目に走る刃物のような傷痕も、左目の泣き黒子も、確かに以前、配膳の傍ら盗み見た彼のもの。


「ーーっくしゅ、」


 他所を向いたくしゃみの拍子に、がばっと空いた首元を汗が伝うのが見えた。病院から抜け出してでもきたのか、カガリのみが着用を許される紺色のジャケットの下はぺらぺらの病院着で、足にいたっては医務室とマジックで書かれたサンダルである。

 離せよと、床の上でもがく真宙に、星浪は顔を顰めた。


「俺は敵じゃないーーつっても、聞くような奴じゃねーよな、お前は」


 億劫そうな態度だが、その身体はきっちりと少女の身体をを抑え込んでいる。いくら真宙が人外じみた身体能力をもっていようが、人体の構造を無視して動くことは出来ない。レベルが違う。体術は入局の時にさらった程度の時に自分でも分かった。


「大人しくしてりゃ、すぐ外してやるよ」


 身を捩る真宙の腕をひとまとめにすると、星浪は空いた片手で、ポケットをさぐる。カチャ、という金属音に真宙はさらに暴れたが、星浪は構わず後ろ手に指錠を嵌めた。


「ちょっと、」

「なんだよ」 

「や……、いえ、ーーなんでも」


 やりすぎでは。言いかけた瞬間、切れ長の瞳で射竦められて、言葉に詰まる。

 なにこれ。

 気付けば大人しくなっていた真宙が言葉を発したのは、その時だった。


「なんか、力、入んない……?」


 不思議そうな声に、星浪の眉間の皺がさらに深くなる。苦しいか。そう尋ねる星浪に、真宙の視線は空に逃げた。

 ーーなにしたの。

 問いただす声は、怒りでも、苛立ちでもなく、困惑に揺れている。そんな真宙に、星浪は口をへの字に閉ざした。


「ねぇ、ちょっと!!」


 声を上げる真宙を無視して、星浪は華奢なその身体を、起き上がらせる。


「あのう、」

「何だ」

「あ……その、」


 今度こそ声は遮られず、だから、迷った。

(放っておいたって、別にいい)

 ふたりの視線が、ざくざくと全身を突き刺す。落ち着かなさに、百々はそろりと腰を浮かした。腰が引けた。そう言うほうが、正しいのかもしれなかった。

 天秤が傾く。 

 ーー僕は、これで。他に仕事があるので。 

 言葉は、喉の奥で時を待っていた。

 忘れてしまえ。

 何も見なかった事にして、これで済ませろ。

 逃げ道には敏感な直感が、今しかないぞと囁いている。今なら間に合う。そんな確信があった。

 言え。

 言ってしまえ。


「……彼女に、何をしたんですか」

「へ?」


 きょとんと見開かれた真宙の目に、百々は自分が何を言ったかに気がついた。射るを超えて、刺すような星浪の視線にざっと冷や汗が浮かぶ。だがもう、全部が遅い。


「お前、状況分かってんのか」

「そんなに馬鹿じゃないですよ。まぁちょっと脅されたり騙されたりはしましたけど、ワケアリっぽいしそれに、」


 息を継ぐ。開きなおってしまえば、言葉はつるつると溢れてやまない。

 ーー逆らうな。歯向かうな。従っていろ。

 理性さえも、自分を押し留める事は出来なかった。


「彼女、何も知らされて無いんでしょう。怖いんですよ」

「怖くなんか、」

「知らない所で勝手に判断して、勝手に決める。それがこの子を此処まで追い詰めた。僕はそのやり口が気に食わない」


 一息に言い切る。少しだけ声は震えた。でも、それ以上にせいせいした。

(だって、嫌だった)

 嫌だったのだ。ずっと。お腹をすかせている子供を、見ていることしか出来ないーーしない自分が。


「……知った時には、遅いかもしれないぞ」


 脅すような声に、百々は笑った。

 そうですね、多分後悔します。返す言葉は、混じり気のない本音だ。でも。それでも。


「だけど、そのほうがいいです」


 星浪が立ち上がる。怒られる? 殴られる? 厳しい眼差しに、一抹の不安がよぎったが、星浪は何をするでもなく、窓を薄く開けただけだった。

 首を伸ばして後ろから覗くも、何も見えない。


「出てくんな」

「痛っ」


 ぎゅむ、と頭が掴まれおしこまれる。でけぇな。膝を曲げた自分を見て、星浪は不機嫌そうに唸った。


「なんか、スミマセン」

「やめろ」


 溜息を一つ。こちらに一瞬だけ目をくれて、彼は真宙の前に膝をつく。ポケットから取り出したのは、一枚の錠剤のシート。


「お前の父親がお前に渡していたこの薬には、ふたつの作用がある。ひとつは、失命者の命喰い化を食い止める役目」

「……は?」

「ちょっと待って下さい。その言い方じゃ、まるで、」

「そうだ。全ての命喰いは、人間だよ。命を失くし、失くした命を求めて獣になった、元人間」

「だったら、命管の言うーーこの世とあの世の狭間、常夜とこよからの侵略者っていうのは、」

「嘘じゃねーよ。ただ、黙ってるだけさ。その正体が、元人間っつー事実をな」

「そんなの詭弁じゃないですか」

「じゃあお前、言えるか?」

「……それは、」

「だから言ったろ? ーー知った時には、遅ぇって」


 意趣返しのように笑われ、頭にかっと血が昇る。


「俺はッ」

「知った所で、人はどうせ命核こいつは手放せねーよ。命喰いへの転下率はいいとこ0.1%。自分だけは大丈夫。そう思いこむに決まってる。いつか化物になる確率より、いつか死ぬ確率の方がよっぽど高ぇ……」

「二つって、言った」


 不意に、真宙が会話に割り込んでくる。彼女の両の目は、床から真っ直ぐ、星浪を貫いていた。


「もうひとつの役目は、何」


 空気が、さざめく。たじろいだのは何故か、星浪の方だった。怖くねーのかよ。呆れたように、呟く。


「勘づいてんだろ、お前」

「さぁ、どうだろ。もったいぶってないで、はっきり言ってくれる? ーーわたしは、」


 声が、僅かに淀んだような気がした。


「私は、命喰い?」

「なぜ、そう思った」

「命管で此処まで警戒されて、それを疑わないのは、無理だよ。ねぇ、その薬のふたつ目の作用は、捕食衝動を抑える事じゃないの」

「……そうだ」

「そっか。……そうなんだ、やっぱり。だから、…、はは、ねぇ、やっぱりなのかな。私は、……私が、父さんを、」


 背後で、ガラスが割れる音がした。何が起きたのか分からないうちに、百々の身体は、突き飛ばされたように床に転ぶ。遅れてやってきた痛みに、え、と見張った。


「何が……痛ッ、」


 抑えた腕に、ぬるりとした感触。見指の隙間からじわ、と染み出すのは赤い赤い、自分の血。

 ふと、強い視線を感じた。何かが壊れる小さな音を、耳が拾う。

(何そんな、ーー血相変えて)

 音が消える。世界は奇妙に、スローモーに。真宙がバネのように跳ね起きるのを、自分の前で、自分を守るみたいに両手を広げた星浪が、真宙に突き飛ばされるのを百々はただ、呆然と見て。


 飢えたようにぎらついた、真っ赤な両のまなこと、目が合った。



 


 


 


 


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