03▶八難去らない
しゅるしゅると、視界の隅で触肢が蠢く。
「伏せてろ!」
車体の下の少年に怒鳴ると、星浪は自転車を飛び越し、地面に転がったエナメルバックの肩紐を掴んだ。弧を描くように振り回して、伸びてきた触肢を叩く。確保した一瞬で、真宙は自転車を除け、素早く少年を起き上がらせた。
「行け! ーーぅおっ、」
持ち上げ、盾代わりにした鞄をあっさりと触肢は突き破る。咄嗟に首を反らしたが、多分頬は切れた。
「星浪、こっち!!」
声に従い、星嵐は左手の細道に飛び込む。ゴミ箱に、資材。脇に寄せられ、立てかけられたそれらをぶちまけ、奥へ。
「ちっ……駄目か」
その触肢で器用に障害物を排除する牡丹燈籠の姿に、星嵐は顔を顰めた。
このまま逃げても、捕まるだけ。そう悟り、足を止める。迫る体躯に、得物になりそうな物を目で探すが、そんな都合の良いものはどこにもなかった。
早く行け。背後の二人に、星嵐は怒鳴る。
「でも鍵がっ」
「鍵!?」
焦った声に振り向けば、少年は焦ったように仮囲いのくぐり戸をガチャガチャさせている。よくよく見れば傍らには『工事中につきご迷惑をおかけしております』の看板。
細い一本道だ。他に逃げ道はない。
壊せるか。そう声を投げれば、やってみると威勢のいい返事が返ってきた。
「無理なら登れ! 足ひっかけーーぅあッ!?」
ひやりと、足首に何かが巻きついて、身を引っ張る。
「星嵐!?」
「ーーッ、いい、行け!」
強打した背中に噎せながら、星嵐は怒鳴った。身を捩り、暴れるが、足首に絡みついた触肢は容赦なく星嵐を引きずっていく。ざりざりと背を削られながらも、星嵐は手を伸ばし、壁に這わされたパイプの一本を掴んだ。
「っ、ぎ、」
手首にかかる、骨が外れそうな負荷に顔が歪む。二度、三度、絡みつく触肢を踵で蹴りつけたが、まるで無意味。そうこうしているうちに、やわなプラスチックはつるりと指先からすり抜けてしまう
「あ、」
ヤバ、と手を伸ばすがもう届かない。
ーー死んだ。
反射的に覚悟を決めた、その時だった。
「やめなさい!!」
圧すら伴った、怒声。思わず星嵐も固まってしまったその声に、見れば牡丹燈籠も動きを止めている。
(嘘、だろ)
目を見張る星嵐から、牡丹燈籠は怯えるたように触肢を引いた。
今この瞬間、場を支配するのは彼女で。彼女が認めなければ、呼吸ひとつ、許されない。この空気を、この気配を、星嵐は知っていた。
(これは命喰いのーー……)
遠く、線路を渡る電車の音。靴底がアスファルトを擦る音。缶が蹴られて、転がり、跳ねる音。
振り向いた星浪の上を、真宙は跳んだ。
直ぐ傍らにあった金属製のゴミ箱。腰の高さまであるそれに真宙は飛び乗り、踏み切り、勢いのままに命喰いを蹴り飛ばす。馬鹿みたいな力技にようやく、時は動くことを許された。星嵐は転がるようにして命喰いと距離を取ると、声を飛ばす。
「ーー足だ!」
投じた言葉の意味を真宙は正しく理解した。
「っらァッ!!」
着地と共に、獣のように手を地面に手をついて
足払い。体勢、威力、スピード。全て申し分ないそれは、一本下駄を履いたような牡丹燈籠の足を見事に刈りとった。
「来い!」
伸ばした手を、真宙が掴む。どお、とひっくり返る命喰いの長駆を視界の隅で捉えながら、星嵐は真宙を引っ張り起こした。
「ねーちゃん、にーちゃん、こっち!!」
泣きそうな声に見れば、戸の向こうに隠れるように、だけれど逃げずに離れなかった子供が、こちらを懸命に手招いている。
真宙を先にやって、星嵐も走った。いつの間にか開いていた戸は、かんぬきが捩じ切られていて閉められない。
どこか、逃げ場所は。
「あっち、行こう」
そう言って真宙はコンテナの積まれた方へと走っていく。銀と白で刺繍された龍を宿すその背を追うことを星嵐は僅か、ためらった。
「星嵐?」
先ほど見せた、野猿のような跳躍力。かんぬきを捻じ曲げた握力。今でこそ何も感じないが、先ほど彼女が発したの圧は、命喰いの〈牽制〉とよく似ていた。
ーーお前、本当に人間か?
乙級以上の命喰いは、人間に完全に擬態できる。そしてその区別は、星嵐にも出来ない。
「星嵐? どっか痛いの?」
その刹那。
右目から脳へ、焼け付くような痛みが走る。強い既視感に、星嵐は傷跡に手をやった。
「っ……、」
ないまぜになった夢と現実、その境を、皮膚に潜り込んだ棘のような違和感が刺激する。
その時だった。
「ーー駄目!!」
焦ったような声と共に、真宙がこちらに飛び込んでくる。勢いのまま押し倒され、ぶつかったフェンスは派手に鳴った。
「あ、ごめ、」
「力技も大概いに……っどけ!」
飛来する刃に、星嵐は真宙を脇へと突き放す。咄嗟に咄嗟に首を傾けたが、皮一枚は裂かれた。
「
フェンスから背を剥がしながら、星嵐は呻く。
牡丹燈籠の使役する
顎まで外れた口から突き出ているのは、先ほどこちらの皮を裂いた刃。ぽたぽたと落ちる血を見て、真宙がぱっと立ち上がる。
「真宙、落ち着ーー……」
伸ばした手は、すり抜けた。
ぱっと宙返りをして子供の方に向かって行った禿を、待てと声を荒げて真宙が追う。
慌てて立ち上がった星嵐だったが、それより牡丹燈籠が迫るほうが先だった。
このままだと追いつかれる。そう判断して、かんぬきの壊れた戸を背で防ぐ。後ろ手にフェンスを握り、身を固定。
「っ、……」
ガシャガシャと、牡丹燈籠が体当たりをするたびに、指が千切れそうになる。
もう少し、二人が逃げる時間を稼ぐまで。禿だけならまだ、どうにか出来る道は在る。だが、その努力は、敢え無く破られた。
「っのーー……めなさいよ!! どっか行け!」
まっすぐ、コンテナの積まれた奥へ走っていった真宙と子供が、傍らから飛び出してきたのだ。
「このバカ!! さっさと離れろ!!」
背後に少年を庇い、廃材を振り回して禿を追い払おうとするその姿に、声を荒げる。禿にうまく誘導されたのだと分かっても、やってられない。
「うるさいな! 見て、わかんないッ!? 今、そうしてーっで、しょうがッ!!」
この期に及んで寝ぼけたことをぬかす真宙に、いよいよキレた。
「頭可笑しくなったのか?
「はァ? 正気!? この子を追いてけって!?」
「そー言ってんだよわっかんねーか!?
「ーーっそ、そうだよ! こんなことしちゃ駄目だって!」
「あんたまで何言ってんの!?」
「俺はまだ死ねるもん! 俺は次が、だからねーちゃんはっ」
「
「はぁァ!? ふざけたことぬかすなこのクソ馬鹿! 死にてーのか!」
「うるさいな。私の命だ! 私が決めて何が悪い!!」
「悪いに決まってんだろーがド阿呆!!」
刹那、肩口にぱっと舞った鮮血に、少年が叫んだ。
「ねーちゃん!」
「だい、丈夫。ーーだいじょうぶ、だから、そこにいて、」
真宙は引かない。どかない。肩口からだくだくと血を流しながらも、顔を上げて、禿を睨む。
いい加減、頭が可笑しくなりそうだ。
ーーもう一つの命は、誰かの為に。
それがこの国の今の在り方。誰の命も奪わせないために命核管理局が定めた新たな社会。
その為に命核はあって、そのために
命ある者が命なき者を守る。
それで命を落としてしまったならば、別の有核者が失命者となった者を守る。
誰もがふたつの命を持つこの国は、そうして、そうやって続いてきたのだ。ーーすべては、あまねく命を守るために。
「駄目だよ、ほんとに死んじゃうってば!」
「こんなのかすり傷だって。私、ぜんッ、ぜん死ぬ気、ないか……っあ、」
「ねーちゃん!」
二の腕を斬りつけられ、その手は今度こそ廃材を取り落とす。それを見た瞬間、星嵐は飛び出していた。
「真宙!!」
少年を庇うように抱え、蹲った小さな背中。盾となるにはあまりに薄っぺらいそれと刃の間に、身を差し込む。
せいらん。
彼女が自分を呼ぶ、声がした。
「ーーっふ、」
肺腑を刃が、えぐり抜く感覚。逆流してくる自分の血にむせながら、悟った。
(これは、死ぬ、)
禿の頭を掴み、刃を引き抜く。禿はスピードに特化してる分、その肉体は脆い。力付くで地面に叩きつけ、二度、三度と踏みぬけば、その細い首はぱきりと折れた。
「星浪!!」
「くそが……てめーの、せいだぞ、」
膝が折れる。ぼやけ始めた視界に、迫る牡丹燈籠が見えた。
(……だめだ、)
唇を噛む。拳を握る。身を支えようとする手を、振り払う。
「ここはいい、……さっさと、いけ、ーーおれは、どうせ、しなねー……」
ーー
手を伸ばし、刃を突き出したまま事切れた禿の頭を拾いあげる。目でも潰せればと、血の味のする息を噛み殺す。だが、その必要はなかった。
なくなったのだ。水色の雷光を纏った、一本の矢によって。
「……くくり?」
見覚えのありすぎる攻撃に、星浪は元同僚の名を口にする。その言葉さえ終わらないうちに飛来した二矢目は見事、胸を射抜いた。
牡丹燈籠が奇怪な悲鳴をあげ、どうと倒れる。
(たすかった、)
気がゆるんだ瞬間に、膝が折れた。慣れた死の気配が、すぐそこまで来たを感じる。
「星浪!」
「……さい、ッあく、だ」
指先ひとつ、ままならない身体を星嵐は呪った。抱き寄せ、揺さぶられる。痛みは遠い。うるせぇよ。たまらず文句を言ったが、聞こえたかどうか。
星浪。星浪。
何度も、何度も、名前を呼ばれる。
ーーでも、
(
それが何を引き起こすかを星浪は知っていた。
知っていたけれど、どこか、どうでもいいと思う自分がいた。
せいらん。
真宙が自分を呼ぶ声が、音が、世界が、遠のいていく。
(俺が
死んで、全部忘れて、次の
いまの
「ちあき、」
もう声にはならない声で、此処にいない彼を呼ぶ。
ーーあなたにそう呼ばれるのが、大っ嫌いでしたよ。
最期に瞼に浮かんだのは、篠突く雨に濡れた、かつての
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