02▶論より感情

「待て!」


 制止の言葉は、戸に遮られる。勢いに倒れそうになった椅子は、かた、と揺れて、ひとりで戻った。

 しん、と静まりかえったーー取り残された部屋の中で、星浪はバスタオルを拾い上げる。水を吸った生地は少し重く、荒れ気味の手の平に染みた。

 放っておけと、理性は囁く。追う義理なんて何処にもない。厄介事が自ら去ったのだ。何故、こちらから構う必要がある?


「……でも、あいつは失命者だ」


 口にしたのは、多分言い訳。

 血か、神経か、あるいは他の何かなのか。びりびりと痺れるような熱を持ち始めた指先で、星浪はエプロンの紐を引く。

 いつの間にか雨はあがっていた。

 夜の中、星の尾のように光る灰髪を目で捉えて、追いかける。先をゆく真宙に迷いはなく、まるで先が見えているかのようだった。


 ーーが。


「……ッ、は、」


 これが意外に、追いつけない。足がもたつく。脇腹が痛い。

(体力、落ちたな、)

 たかだか数百メートルの全力疾走で見えてきた限界に、星浪は顔を歪めた。

 軋む肺をドンッと打つ。命喰いの匂いはもう鼻につくほど強く、濃く。

 誰か。誰かあ。

 きれぎれに聞こえる男の声に、真宙がさらにスピードを上げる。何かスポーツでもやっていたのだろうか。呆れるほど早い。


 とはいえ、こちらにも面子はある。残る意地でもう一度、スピードをあげると、星嵐はその腕を捕まえた。真宙は、大通りへ飛び出す寸前だった。


「えっ、わ、ーーぅッ!?」


 強引にこちらに引きずり戻して、口を塞ぐ。傍からみれば完全に誘拐犯の図だったが、そんなことを気にする余裕、あるわけもない。


「っは、ぁ、ーーッ」


 汗がしとどに流れていく。暴れる身体を抑え込みながら、星嵐は必死で肺に酸素を送った。

 助けてくれ。誰か。

 夜を通るその声に、腕の下で真宙がもがく。


「ーーじき、命管が来る。お前が行く必よ、ぁッ」


 どうにか落ち着けた呼吸の下、無声音で囁くも、真宙はまるで聞いてくれない。指を容赦なく噛まれ、声が出かけた。

(ぜってー、切れた)

 じんじんと痛みは骨まで走り、蟠る。その時だった。


「ーーいッッ!?」


 足への追撃。それも、小指の方。角にうっかり指をぶつけたアレのさらにひどい版に、涙が滲む。


「てめ、待ーー……おい!」


 悶絶している間に、真宙はするりと拘束から逃れた。


「馬鹿、やめろ!」


 吠えた所で、彼女は言うことなんて聞きやしない。どうにか痛みをやり過ごしたところで、ガラスか何かが割れたような音が降ってくる。


「真ひ、ーーッ、」


 一歩、踏み出した瞬間再燃した痛みに、膝が折れる。這うようにして出た通りの向こう、距離にして約十メートルほど先に見つけた背に、星嵐は目を丸くした。


「ーーマジか」


 ぽつんと落ちる街灯が、スポットライトのように彼女の姿を浮かび上がらせている。だが、舞台女優と呼ぶには、その振る舞いはいささか物騒だった。

 傍らのスポーツ用品店。その割れたショーウィンドウーー音からして先ほどの音はコレだろうーーーの隙間から手を突っ込み、真宙は細身の金属バットをするりと抜く。

(自分で割ったの?)

 遅れて追いついた理解に、今度は口がぽかんと開く。スカジャンを纏い、感触を確かめるようにくるくるとバットを回すその姿は、どう控えめにみてもチンピラでしかない。器物破損。窃盗。ナチュラルに行なわれた軽犯罪に、目眩がした。

 これ以上、一体何をしでかす気なのか。


「おい、何すーー」

 

 制止はまたも、間に合わない。

 気合一閃。

 うぉりゃぁと、真宙はそれはそれは堂に入ったフォームで、金属バットを投擲した。


「……は?」


 唖然とする星浪を他所に、バットは矢のように空気を切り裂き、飛んでいく。その先にあるのは、金属でできた細帯のような触肢で男を高々と吊り上げている命喰いの頭。

 うそだろ、と。

 呟いたと同時に、バットは命喰いの後頭部に直撃する。


 スコーン! とか。 カコーン!! とか。

 はたから見たそれは、そんな小気味よいオノマトペがつくであろう、コントじみたクリーンヒット。だがギャグめいた図であっても、金属バットだ。どう少なく見積もっても、人間なら軽く昏倒できる威力。実際、命喰いにも通用したらしい。ぎぃぃぃ、と命喰いは鳴いて、男を取り落とした。


「ほら、こっちだ!!」


 そう叫んで真宙は、その無事だった窓ガラスへとフルスイングをかます。

 ーーお前、いつの間に二本目を拝借した? 

 星浪がツッコミきれずにいるうちに、角隠しを突き破った一本角が、こちらを向いた。

 人間を縦に引き伸ばしたような長身が、街灯を受けて金属質に光る。

 牡丹燈籠。またの名を鉛色の花嫁。

 甲乙丙丁の四種の中で、最も低ランクに位置する命喰いではあるが、一般人が装備もなしに相対できるような存在では決してない。


「ーーせぇりゃぁあッ!!」

「あの、馬鹿」


 二本目の投擲を見送りながら、星浪は呻いた。狙いは正確。スピードも上々。だが、今度はちゃんと見ているのだ。命知らずな二の矢は、手持ち洋燈ランプと一体化したような右腕にあっさりと弾かれる。

 ひぃ、と悲鳴を上げて逃げた男を、牡丹燈籠は見もしない。真宙を排除すべき敵として捉えたののだと、手に取るようにわかった。

 かこん、と特徴的な足音が響く。だが、その足音と、移動する距離はまるで合わない。

 手を伸ばせば、届く場所。その位置まで牡丹燈籠は一気に距離を詰めたが、真宙の背は揺るがなかった。

 威嚇音。掛下を纏っているようにも見える左腕から、灰色の触肢が威嚇するように蠢く。


 獣同士のような睨み合いは一瞬。


 伸ばされた触肢をさっと躱すと、真宙はさっと踵を返した。そのままタッと、こちらに駆けてくる。


「……ん?」


 ーー


 刹那、ばちりと合った視線に、真宙はぎょっとその三白眼を見開いた。馬鹿とか、どきなさいとか、焦ったように口にして、あっちへいけと身振り手振り。

 星嵐にとっては、こちらの台詞だという話で。

(馬鹿は、てめーだろ)

 腹の底がふつふつと熱を持つ。

 無茶に無謀のマリアージュ。これまでの行為のどこで、彼女はいつ死んだって可笑しくなかった。


「なんで逃げなかったの!?」

「お前が言うか?」


 一緒にマラソンするように、踵を返す。途端にぶつけられた真っ直ぐな怒りに、星嵐はいよいよ呆れ果てた。


「何、命もねーやつが何出しゃばってんだよ」


 死にてーのかと問えば、その顔はみるみるうちに嫌悪に歪む。

 ーー出たよ差別主義者。

 吐き捨てるようなそれに、流石にカチンと来た。


「ふざけんな。パラシュート無しでスカイダイビングする馬鹿がいたら誰だって止めんだろ!」

「何その例え。意味わかんないんだけど」

「今のてめーのことだよ!」


 かこん。かこん。かこん。

 駆り立てるような足音に、後方を確認。それが不味かった。


「星嵐、前!」

「あ? ーーッな、」


 キィイイイと、甲高いブレーキ音が耳を切り裂く。スピードを緩めることなく突っ込んできたのは、1台のマウンテンバイク。ギリギリでぶつからずには済んだが、強引な切り替えに、その前輪は水たまりに滑って浮いてしまう。

 

「ーー大丈夫!?」


 ひっくり返り、車体の下敷きになった少年に、真宙が慌てて駆け寄った。振り向き、再度確認した牡丹燈籠との距離は、およそ二メートル。


「あーッ、くそ! 次から次へと!! なんなんだ今日は!」


 たまらず吠えた星浪に、どこかの家の犬だけが、あおん、と返した。

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