六章 なぜ落ちるのか? はいあがるためだ

  一


 夏美や安藤と集まって、動画作りに集中しているときだけは仕事のことを忘れることができた。俺は意識的に仕事のことを忘れようとしていた。

 現実逃避しようとしていたのだろう。 いつかは今の仕事をやめたいと思う。

 しかし、いきなり会社をやめて次の仕事を探す……という大胆な行動には出られずにいる。理由はただ一つ。大不況が定着した現代。

 次の仕事を見つけるのは極めて難しいからだ。金と仕事がなければ、今の日本を生きていくことはできない。だが、いつまでも、この仕事がつづくわけがないのは理解していた。仕事をやめたいが、なかなか、やめられないというジレンマから目を背けるために、俺は動画のことを考えつづけた。 

 やめたいと思っていても、実際に仕事をやめる行動なんて何一つとしていない。

仕事が終わるころにはハローワークは閉まっているし、転職サイトもあてにならない。結局、ブラック企業に入った時点で、詰みだったのかもしれない。

それでも食いぶちを稼ぐには、この会社で働かなければならない。スキルも資格もない。たいした大学も出ていない。そんな俺に次の仕事が見つかるわけがないのだ。

悔しくて涙が出る。そんな感情を押し殺すために、俺は動画の事を考えた。

 青い鳥のPVには、あと一つ。インパクトが足りない。

その問題を解決方法を必死で考えていた。

仕事中でも、頭の中に浮かぶのは動画のことばかりだ。一体、どうすればいいのだろう。俺の思考を中断させるように、社長の声がかかった。

「平松。今日はおまえだけ残業だ。管理職だから、サービス残業やるのはあたりまえだよな? 飯を食う時間もないし、便所もいく時間もないけど、当然やるよな? 管理職なんだから? そうだろ?」

 社長は、捨て犬を見るような眼で告げてきた。俺は無言になった。まるで俺を奴隷か何かのように扱う社長に怒りを覚える。俺はささやかな反抗をした。おそらくは短気な社長の逆鱗に触れるだろうと感じながら。

「忙しい時期なのはわかりますが、飯を食べる時間くらいはいただきたい」

「クズはクズらしく、言われた事だけやればいいんだ!」

社長がどなった。足を持ち上げた。中段のまわしげりが来るように思われた。

しかし、足は途中で奇妙な角度に曲がり、さらに上に持ち上がる。社長のつま先は俺の肩をかする。変なけり技だ。たいして痛みはない。

「社長、いい加減にしてください」

俺は社長に告げる。もうこの人はダメかもしれない。

「おかしいな。ブラジリアンキックがうまくきまらないな。こうか?」

 どうやらブラジリアン柔術の技らしい。社長は悩みながら、二度目の回しげりを放つ。途中で足が変な方向に曲がるが、命中はしない。なれない技を使いこなせないらしい。

俺は腕を腹の前で十字に組んで中段ガードをすることにした。

どうせあたらないだろうと思われた。

「今度はどうだ? おらあっ」

 社長は三度目のけりをはなつ。足の角度はまた中段で変形。また、あたらないと思われたが甘かった。社長のつま先急激に角度を変えて、俺の顔面につきささった。中段ではなく、上段の攻撃だったのだ。

 顔の半分に衝撃が走る。左目に激痛。左耳がキーンと痛んだ。直撃ではないがかなり痛い。ブラジリアンキックというのは、中段げりに見せかけて、いきなり上段げりがくるような技だったようだ。衝撃でメガネが吹き飛んだ。

「よしっ! きまった! クズにブラジリアンキック決めてやったぜ!!」

 社長は歓声をあげる。俺は地面にひざをついた。格闘技で言えば、KOされた状態だ。 もはや、抵抗する気力はなかった。体力的な問題ではない。精神的に完全に折れた。

 そばで、新入女子社員の加世が俺を見ていた。社長にけりまくられて、つばをかけられた情けない俺を。手探りで眼鏡を探すと、眼鏡のフレームは曲がっていた。

 左目が痛い。右目だけしか見えない。加世は心配そうな視線を投げている。

同情しているのだろうか。情けないと思った。涙が出る。痛みではない。

痛みだけなら耐えられただろう。あと二発。同じけりを食らっても、俺はたえられる自信がある。耐えられないのは、自分のふがいなさだ。三十手前になりながら、奴隷社員でありつづける自分。何も未来の無い自分。

 それが耐えられない。情けない。心のそこからそう思った。今の俺はたぶん世界で一番情けない。涙を流しながら、うらみの気持ちをこめた目で社長を見上げる。

それだけが今の俺にできる最大限の抵抗だった。

「辛くて泣くくらいなら、会社辞めちまえ」

 社長は鼻先で笑いながら、ぺっと音を立ててつばを吐いた。

 つばが俺の顔にあたった。社長は俺の顔をのぞきこんで、邪悪な笑みをたたえて言った。

「でも、お前はこの仕事をやめても、何もできる仕事はねえよな? 雇われているだけマシと思え。お前の給料は働き以上にお恵みを与えているだけだからな」

 社長はのどの奥で笑い続ける。俺は無言だ。なんだか吐き気がした。胸がむかむかした。のどの奥まですっぱい胃液がこみあげてきた。

「会社をつぶすリスクを背負って働いているんだから、会社がダメになったら自殺してくれるよな?」

 社長が言った直後。限界に達した。 

「なに、すんだよ! お、おまえっ!!」

 社長は青ざめた顔でどなりかえした。

 気づけば俺は社長の首元へラリアットをかましていた。

 それこそアクション映画に出てくる主人公のように体をクルリと回しながら、社長をガラス扉の方に吹き飛ばしていた。俺は格闘技経験があるわけではない。何度も反撃されたらしく、口の中は血の味でいっぱいだった。

 どうだ、筋トレ中毒の肉団子にだって意地はある。ざまあみろ。

 わざとやったわけではない。偶然こうなったのだ。社長も口を切ったらしく、口の端から血が滴っていたし、鼻からも血があふれていた。

 もはや、引き返せない状況だった。ならば、突き進むしかない。地獄へ。運命がこのまま進めと俺に言っている気がした。

 俺は床洗浄用の洗剤の入ったバケツを、すっ転んでいる社長の顔にぶつけていた。床も社長も俺も洗剤まみれだ。社長は目に洗剤が入ったらしく、社長は悲鳴をあげて、自分の目を指でこする。

「ふざけるなよ、平松!! こんなことしてタダで済むと思うなよ」

「ふざけるな? ふざけているのはお前の仕事のやり方だ! こんな仕事もうやめてやる! 一人で一生サービス残業やってろ! 俺はもう帰るっ! こんなくそみたいな仕事。誰もやらねえよっ!」

 俺はさけぶと、立ち去った。

ただ、大事なことを思い出して一度もどると社長のすねに思い切りローキックをくわえた。社長は、カラスのようなギャー!という悲鳴をあげると、地面に転がった。

ブラジリアン柔術の使い手も目潰しと急所攻撃には弱いらしい。

 加世が俺を無言で見つめていた。何かいいたそうな顔で。俺も何もいわなかった。

 ただ、帰りざま指でVサインを作って勝利の合図をおくった。やけくそな気分だった。

「おつかれさまでした。私もすぐに平松さんの後につづくと思います。待っていてください」

 加世は笑顔で言うと、俺にふかぶかと頭を下げた。

加世はどこかすっきりした表情をしていた。

 

 二


俺は車で会社を飛び出した。家に帰る気にはなれなかった。行き先のないドライブを続けた。行き先もない人生がこれから待っている。神経が興奮して、動悸がおさまらない。これから俺はどうなるのか。ヘッドライトの光は手前しか照らさない。

その先に見える光景なんて走ってみなければわからないのだ。

社長のブラジリアンキックのダメージは大きかった。

徐々に左目は開くようになったが、ズキズキと鈍痛が止まらなかった。何かをやめるには痛みが伴うって事をまるで体現しているみたいだ。

痛む左目と同じくらいズキズキと脈打つたびに頭痛がする。

不安と怒りで心臓はいつまでも早鐘を打つ。

自分はとんでもないことをやらかしたんじゃないだろうか。

今すぐ会社に戻って、土下座でもするか? そうしたらクビはつながるかもしれない。だが社長は俺を許さないだろうし、もう俺も社長を許す気はない。百パーセント交渉は決裂する。もし許されたとしても、今よりも過酷な労働環境を提供してくるだろう。

 社長の言うように俺には他にできる仕事がない。何かしらの好機でもない限り、正社員にはもうなれないだろう。

 リーマンショック後の日本は大不況に陥っている。限られた椅子を奪い合い、蹴落としあう椅子取りゲームと化している。正社員になれるのは、新卒と特別優秀な中途採用の人間くらいなものじゃないのか?

 特別なスキルも、経験もない俺にできる仕事はないのかもしれない。

 一生フリーターかもしれない。もう勝ち組にはなれないだろう。

 このままでいけば、忘れ去られるだけで、何も残せない男になるだろう。

 かといって社長の暴力を我慢して耐え続けるのが正解だったのか?

 それはない。でももっとやりようはあった気もする。それがなんなのかはまだわからないが。俺のミスは会社を辞めた事じゃない。

 そもそもブラック企業に入った事だ。本当にこれでよかったのか。自信はなかった。これから先も苦悩し、迷い続けるだろう。

 時間を巻き戻せるなら、自分のやった事を消し去りたい気分だ。 

 いっそこのまま死んでしまおうかなんていう危ない発想が出てきて、俺は我に返った。

 なんだか心も体も疲れてきた。運転するのすら面倒くさくなった。

 俺は家に戻った。鈴原と話がしたいと思った。

 全部話して楽になりたい。カッコつけていた自分を捨てる。今までの秘密もすべて話す。

 俺が俗にいう社畜だったことも、ブラック企業で働いていたということも。

 社長の暴力に耐えかねて、今日、仕事を辞めたことも。ありのまますべてを吐露してしまおう。

 時間も夜九時を過ぎた。まだ通話できる時間帯だ。俺はLINEで電話をかけた。 

「なぁ、鈴原。話したい事があるんだけどいいかな?」

「うん。実はね。私も話しておきたい事があるんだよー。ははっ」

 鈴原はいつになくハイテンションだった。

 なぜか知らないが機嫌がいいらしい。酒を飲んでいるのだろうか。

「酔ってるの?」

「うん、お酒のんでまーす! 平松君も飲めば? 楽しいよ?」

 鈴原は笑いながら言った。

酒はいいなと思った。俺も酒を飲もう。べろべろに酔えば、今日のことも気にならなくなるかもしれない。

俺はさっそくカルーアミルクを作り、一息で飲みほした。

「ごめんね。平松君。音楽ライターってのはうそ。ほんとはまだ、何もやってないんだ」

「そうなのか?」

 突然の話に俺は少しショックを受けた。ずっと鈴原が音楽ライターだと思い込んでいたのだ。なんか、鈴原の価値が下がったような気がした。嫌いになったというわけではないが。何か、今までの鈴原とはちがうような気がした。

 鈴原は不気味なほど元気でべらべらとしゃべりつづけた。

「実はあたし、東京につきあっている彼氏がいるの。今度。東京に行って同棲する予定なんだよね。東京にいけば、仕事もたくさんあるし、音楽ライターになれるチャンスもあると思うし」

 一瞬。時間がとまった気がした。

鈴原が何を言っているのかわからない。心臓がずきりと嫌な音を立てた。体中をまわったはずのアルコールが胃にたまって、ズシリと重くなった気がした。 

「俺とは遊びだったの?」

「遊びっていうか、友達以上彼氏未満っていうか……。そんな感じ。ああ、そうだ。東京に行く前に、最後。二人で遊ぼうよ。次は二人でお酒のんで裸のつきあいみたいなこともオッケーだよ」

 笑いながら話す鈴原。入れ込んでいたのは俺だけだったのかもしれない。

 現実世界で会ったのだって、ほんの数回だ。俺の勘違いだった。それだけのことなんだろう。肉食男子の性欲過剰男なら「いいよー。俺も裸のつきあいしたかったんだよねー」と返せたのだろう。

 だが、俺にはできない。鈴原とは、真面目に恋愛するつもりだった。

 いずれは、肉体関係になるかもしれないが、それは……もっと段階をふんでというか、前置きがあってのことだと思っていた。

 俺は奥手な男なのかもしれない。でも、それが俺だった。

 そういえば。前にツイッターで変なことを書いていた。

あれは全部、俺以外の他の男のことだったのか。激しい感情が頭と腹の中でうずまいた。怒りなのか、悲しみなのかわからない。ただ鈴原が自分を裏切ったことだけは理解できた。

 そのとき。家のインターホンが鳴った。

「誰か家に来たみたいだ。じゃあね」

 俺は電話を切った。ベストタイミングだった。今は鈴原のことを忘れたい。セールスマンだろうが、殺し屋だろうが、今の来客は歓迎したい。

 たとえ、人食いゾンビでも喜びたい気分だ。やけくそな気分に再びなっていた。

 ドアを開けると、立っていたのは安藤だった。

 安藤は何か深刻そうな顔をしていた。ぼそぼそとした口調で切り出した。

「俺動画やめるわ。もう三十歳だし、いつまでも、こんなことしてたらやばいし……」

「なんでだ?」

 俺は自分の耳をうたがった。なんで今日は次から次へと災難が続くのだ。

「この前。同級生にあったら、公務員やってた。結婚して、子供もいた。しかも、来年にはマイホーム立てるんだってよ。くそが」

 安藤が何かをうらむような口調で、憎憎しげにはき捨てた。

 言葉が出ない。結婚と子供という言葉が俺の胸につきささる。俺にはまったく縁のない言葉。頭の中で鈴原がどこの馬の骨かわからない男と交尾する光景が思い浮かんだ。

頭痛と吐き気がした。安藤は泣きそうな顔で早口でまくしたてた。

「他にも、結婚したやつらがけっこういた。ちゃんと定職について結婚したやつが多い。俺はいつまでも、こんなことやってたらやばいんだ。まともな仕事につかないと。早く結婚して、そして、あいつらに負けないように……」

「でも、おまえ。歌はいいのか? 歌で有名になるんじゃなかったのか?」

 俺は言葉をしぼりだした。安藤の気持ちをとめるために。

「夢からさめる時期なんだよ。平松。パーティーは終わりにしたんだ」

 珍しくまともなことを言って安藤は背を向けて歩きだした。

 安藤が去ると、急に孤独になった気がした。

 地球に自分一人だけしかいないような孤独を感じた。

 頭痛と吐き気と寒気がした。俺はインフルエンザにでもなったのだろうか。

「パーティーは終わりにしたんだ」

 声に出してつぶやいた。

 社長に蹴られたときの十倍。いや、百倍はつらいような気がした。 

 俺は何のために、生きているんだろうと思う。仕事もだめ。女もだめ。仲間も去った。

 初めから仲間じゃなかったのかもしれない。すべてが一方的な人間関係だったのだろう。

 俺の行動はまったく価値がなかったのかもしれない。 

 どうしてこうなった? 俺は何をやってもうまくいかない運命なのか?

 まわりの人間はみんな定職についている。結婚している。

 子供もいる。マイホームまで建てている。でも、俺はこれだ。

 仕事もなく、金もなく、女もなく、友達もなく。なにより未来さえない。

「チェックメイトだな」

 体中が熱くなる。顔中が、目頭が熱くなる。涙と鼻水とよだれが同時に出た。

体中から汗が出た。吐き気もした。今にも死にそうな気がした。

 このまま死んでもいいような気がした。

 酒を死ぬほど飲もう。たいして飲めもしない酒をガンガンあおろう。

カルーアミルクを百杯飲んで急性アルコール中毒にでもなろう。

 このまま死のう。もう何もかもがどうでもよかった。

 その時。スマートホンが鳴った。 

スマートホンにメール一件。 

『いい動画が取れました。絶対にPVに使えますよ』

 夏美からだった。喜んでいるようだ。

俺は涙を服の袖でふいた。深呼吸を何度かして、自分を落ち着かせようと、夏美に電話をする。開口一番。本題を切り出した。

「すまないが、もう動画作りは終わりにしよう」

「どうして、ですか!」

 夏美はめずらしく取り乱した。

「安藤がチームをぬけたんだ。それに俺もさっき失業した。明日からハローワークに行って、仕事を探さなくちゃならないんだよ」

 無言になる夏美。俺はひたすら話しつづけた。

「立花さんももっと勉強して、まともな仕事を見つけた方がいい。いつまでも夢みたいなことを言っていられないんだ。動画で有名になるとか、夢だけじゃ生きていけないんだ」

 自分自身に言い聞かせてるみたいだ。ひきょう者のセリフだと思った。

 しばらく沈黙した後、夏美は静かな口調で言った。

「平松さんは、そんなことで動画作りをやめるんですか?」

「えっ?」

「仕事がなくなって、仲間にうらぎられただけで動画作りをやめるんですか? 動画への情熱はその程度のものだったんですか?」

 今度は俺が無言になる番だった。夏美の言葉が心臓につきささった。

 興奮がしずまり、自分が一気に冷静になるのがわかった。

 真剣な夏美の声だった。

「バットマンビギンズを見てください。それでも動画作りをやめたければ何もいいません」

 電話はいきなり切れた。バットマンビギンズか。五回以上見た映画だ。

 でも見てもいいかもしれない。

 俺はDVDコレクションの中から取り出すとプレイヤーにセットした。

 テレビで映画がスタートした。

 バットマンことブルース・ウェインは、子供の頃に両親を殺され、深い怒りをいだいていた。下手人は裁判が終わると同時に殺される。

ブルースの目の前で。ブルースもまた拳銃を持ち、下手人を殺そうとしていたと言うのに。憤りをいだいたまま、ゴッサムの街をぶらつくうちに彼が過去に、チベットで訓練していた時の事を思い出す。

 悪人にとって恐怖の対象になる事。ゴッサムシティを自警するためにバットマンスーツという鎧を着て、街にたち、悪をうつ。

 ただし悪人を再起不能にしたとしても、命までは奪わない。

かつて彼の両親が殺された悲劇を繰り返したりはしない。

 それがブルース・ウェインの信条だった。二重生活を隠すために昼間の時間は、プレイボーイに徹する事にした。

腐りきったゴッサムシティを浄化するにはどうすればいいのかをバットマンは考えた。バットマンは人を殺さない。

 ではどうするのか? 自分を誇示し、ゴッサムに潜む悪にたいする抑止力となる事で、ゴッサムをかえようと考えた。

 そこにラーズアルグールの部下であり現在のラーズアルグール、ヘンリー・デュカードがやってきた。ゴッサムは、かつてのローマなどのように腐敗しきっている。一度破壊し、あらためてこの街・この文明を復興させるのが、自分達の役目であると。

 かつて彼らの軍団がそうしてきたように。バットマンとヘンリーの思想はぶつかりあうが、最後に立っていたのはバットマンであった。

 ビギンズの中で次のようなセリフは俺を動かした。

 人はなぜ落ちる? はいあがるためだ。 

 バットマンライジングでも奈落に落とされ、ブルース・ウェインははいあがる。

 俺ははいあがらなければならない。

 このままでは終われない。終わってはいけないのだ。そう強く感じた。俺はこのままじゃ終われない。地下に落ちたとしても、バットマンと同じようにはいあがり、戦い続けなければならない。夏美はこれを伝えたかったんだろう。俺はこの程度の事で動画作りをやめてはいけない。

 仕事を失ったくらいなんだ。勝手に自分が勘違いしてイメージばかり膨らませていた女にふられたくらいでなんだ。

 バカな安藤に裏切られたくらいでやめてどうする。

 ビギンズのエンドロールが流れ続ける。なぜだろうか。今は爽快な気分だ。 

 頭痛も吐き気もおさまっていた。逆に興奮して体が熱くなっているくらいだった。

もう酒なんて飲んでいられない。

 この寒空の下、外をムチャクチャなフォームでランニングしたい気分だ。

 時計を見ると、夜十時だった。いつもなら、風呂に入って寝る時間だ。

 だが、今は寝てなどいられない。俺はトレーニングウェアに着替えて外に飛び出していた。興奮を鎮めるためにジョギングをするつもりだった。

 今の俺ならフルマラソンくらい簡単に完走できるかもしれない。


  三


 夜の街は静かだ。夜風も冷たい。だがこのくらいが今の俺にはちょうどいい。

 どうしようもないほど気持ちが高ぶっている自分に気づく。走りながら、頭の中を整理していた。仕事をやめたのは正解だった。この先、いつまで続けていっても未来はなかったと思う。

製造業自体に未来がないのだから、どれだけ頑張っても成果は出なかっただろう。きっとこれでよかったのだと思う。でも別の仕事は探さないとまずいだろうけどな。すぐに見つけられる自信は正直に言ってない。

 時間をかけてでも探すほかないだろう。

 俺は鈴原と何のために付き合っていたのだろう?

 いいように乗せられて無駄な期待をしただけじゃないのか。

 大学時代とは俺も鈴原も違う人間になったってだけだ。自己中心的で口先だけの見栄っ張りの女。とはいえそんな鈴原にたいして勘違いをしていた俺も悪いんだろう。

俺だってプライドを守るために、見栄を張った。

結局、どっちもどっちだったんだ。

 俺は鈴原から見れば保険だった。ただそれだけのことだ。

 安藤も安藤だと思う。結局、動画が完成する前に、途中で投げ出してしまった。

 歌がうまかったとしても、あの状態じゃ、才能は活かせない。最初から友達と思ったことはないが、同じ方向を向いた仲間だと思っていた。その連帯感すら捨てたのなら、もう付き合う必要はないと思う。

 俺に友達と言える人間は一人か。夏美だけだ。むこうが俺の事をどう思っているのかはわからない。 

 だから一方的でも俺は友達と思うことにした。

 俺はこのままじゃ終わらない。終わったら、捨ててしまったすべてに対して、申し訳がない。夜の街を走りながら、自分に誓った。


  四

 

 ある日の仕事場。社長が俺のところに来て告げる。

「おまえの送別会はやらないことにしたから」

 社長はこころなしか、俺のことにおびえている様子だった。この前の反撃が効いたのかもしれない。その証拠に俺から三歩以上はなれた場所にたっていた。視線もぐらぐらと横に泳いでいる。弱いやつには強気に出て、強いやつには下手に出る気弱な男だ。

俺のことを危険な相手と判断して、警戒しているのだろう。

 社長は不快な顔つきで、怒りに満ちた声で言った。 

「ひきつぎをいいかげんにやったら、日本で働けないようにしてやるからな」

「そんなことができるんですか? すごい権力ですね。社長は日本の王様ですか?」

 俺が皮肉をこめて言い返すと、社長何も言わず鼻を鳴らした。また、殴る蹴るの暴行を加えるのかと一瞬覚悟をした。だが、何もしない。黙っているだけだ。

 もう仕事を辞めることは決めたのだ。もうこれ以上。目の前にいる男のご機嫌をとる必要は無い。もう失うものはない。 

 俺は正面から社長をにらみつけながらいった。

「社長のことは労働基準監督署に相談します。覚悟してください」

「勝手にしろ。後ろ足で砂をかけるようなことをしやがって」

 社長は俺から視線をそらすとぺっと地面につばを吐き捨てて背を向けて歩き出す。もう負けてはいない。負けてはいけないのだ。途中。女子社員の加世がやってきた。この娘は俺が社長ともめるときに限って、姿をあらわすような気がする。 

 仕事でストレスがたまっているのか、加世は最近は顔色が悪いようだ。目に力がなく病人のような青白い顔をしている。社長は手を伸ばして、加世の尻をなでた。

「なにをするんですかっ!」

 加世のかん高い悲鳴があがる。俺はすぐにスマートホンのカメラ機能を作動させて、社長の様子をうつした。 

「いいケツしてるからさわってやったんだよ。うれしいなら、もっとさわってやる。今夜の予定空けておけよ。サービスしてやる」 

 社長は下品な顔で笑いながら、加世をふざけて追い回した。

「ふざけないでください。何を考えてるんですかっ!」

「社員とのスキンシップを考えてるんだ! チームワークが大切だからなっ! 文句あるのかっ!?」

 とても四十過ぎの男がやることではない。バカな男だと思う。

 俺ともめたストレス解消のためにセクハラをしているのだろう。くだらないのにもほどがある。やっぱり、この仕事を辞めて正解かもしれない。 

 二人が去った後。動画の長さを確認した。長さは二十秒ほど。

セクハラの証拠映像としては十分だろう。俺は休憩時間に会社の事務室に移動した。動画のデータファイルを、パソコンを使って予備のSDカードに保存した。

 しばらくすると、何かの用事で加世が俺のそばを通りかかった。

最近の加世は顔色が悪い。この仕事も長くはつとまりそうにはない。

 俺はSDカードの入ったケースを、加世の手に押し付けた。

「これプレゼントね。あとでパソコンで見て」

「ありがとうございます。なんですか? これは?」

「自衛のためのアイデアだよ。好きに使ってくれ。うまくいけば君を傷つける相手を遠ざけられるかもしれない」

 「自衛? 傷つける相手?」

 加世は目を丸くしていた。俺の言葉の意味がわからないようなそんな表情をしていた。


 五


 仕事の後。夏美からメールが来た。

『最高の動画をアップしました。YOUTUBEを見てください』

 俺はスマートホンで動画を見る。いつもの猫の映像だった。しかし、猫はいきなり動き出して、とんでもない大ジャンプをくりだした。

 猫は塀から塀へと飛び移るスーパーキャットだったのだ。漫画に出てくる忍者のような動きだった。とんでもないジャンプ力に驚嘆した。

 夏美はこの瞬間を撮るために、毎日のように動画を撮っていたのだ。俺は思わず、夏美に電話をかけた。

「こいつはすごい! すごい動画だぞ!」

 俺がさけぶとはにかんだような声で夏美は答えた。

「ありがとう。でも、ほめてくれるのは、平松さんだけです。再生カウント数が全然あがりません。編集がうまくいかないし、何かものたりない」

「そうかもしれないけど……」

「この動画は単体じゃだめなんですよ。平松さんのPV。青い鳥の歌のサビの部分に入れるために撮影したので」

 夏美の意見はもっともだ。

今まで青い鳥に足りないと思っていたシーンはこれだった。この猫のスーパージャンプさえあれば動画はぐっと魅力的なものになる。

「このシーンを青い鳥のPVに入れるには、あと一つ、みんなで猫をつかまえようとするシーンをみんなで撮らなくちゃだめなんです。だけどジョーカーは抜けたんですよね? あの人がいないなら、ダメですね。残念」

 電話を切った後。もう一度。夏美の動画を見た。再生回数は五十回程度。世の中には、魅力的な動画はいくらでもあふれている。そのなかでは、

 この程度の動画など埋もれてしまうのだろう。これだけでは、物足りないのは確かだ。単体では一発芸にすぎない。しかし、俺の青い鳥の動画としてパーツに埋め込むには、最適のワンシーンなのだ。安藤の協力が必要だった。


 六


 俺は安藤の家にむかった。あんなやつには二度と会いたくは無い。もう一度。一緒に動画を作ってください……などというつもりにはなれない。

あんな男に頭を下げるぐらいなら死んだほうがましだ。だが、あの男の力が必要だった。 安藤の家のインターホンを押すと、すぐに安藤が玄関に出てきた。

「なんだよ、おまえ?」

 寝ぼけた顔つきに、汚らしい髪型。何日も洗っていないようなスウェットの上下。いつもの清潔感ゼロの男だ。でかい口をあけてあくびをしていた。

「仕事のほうはどうだ? いいのは見つかったか?」

 安藤は俺の言葉に一瞬驚いた様子だが、視線をそらしておどおどした様子で言った。

「毎日ハロワに行ってるけど全然いいのがねえ。老人介護ばっかりだ。あと、チェーン店の飲食業。警備員。離職率が高いしょうもないのばっかり。もうこの国はおわりだ。くそ」

 安藤の回答は予想していた。

たぶん、数日もすれば俺も同じような体験をするのだろう。夢も希望もない未来に一瞬ぞっとした。しかし、腹に力をいれて、強気で言い返した。

「ふーん。でも、おまえはまともな仕事を探しているんだよな? バイトは卒業するんだろ? 定職について、結婚して、子供作って、マイホーム建てたいんだろ?」

「そうしたいんだけどさー、でも、なんていうか、なかなか……現実はうまくいかなくて……やばすぎる時代だからさー」

 安藤は情けない目でヘラヘラ笑いながら、俺を見てきた。同情を引くように。俺は腹が立った。ひと泡吹かせてやろう。そう思った。

「お前がまともな定職に就くことはもうないだろうな。良いとこ、バイト暮らしだ」

「へ?」

 安藤は間の抜けたような顔で俺を見つめてきた。俺は大声でまくしたてた。

「三十近いおまえが、何のキャリアも資格もないお前が、今からまともな仕事ができるか? まともな会社は、新卒でいきのいい二十二歳の大学生を雇うんだ。おまえみたいな低学歴で負け犬で、年をとった腐ったクズ男なんか誰も雇わない。かりに雇われてもどうしようもないブラック企業だ。低賃金重労働の最低の仕事しかない」

 安藤は無言になった。空中を見つめている。

俺はなおも続けた。

「おまえは、もう二度とまともな企業には入れない。年齢制限をこえているから公務員にもなれない。おまえは頭も性格も外見も悪いし、人脈もないから、起業もできない。しても、失敗する。犯罪に走っても、頭が悪いからオレオレ詐偽のような高度なことはできない。せいぜいできるのは、コンビニ強盗ぐらいだ。つまり、八方ふさがり。将棋で言えば、完全に詰み。どうだ? 今の気分は? 自分の怠惰さを呪う気分はどうだ?」

「なんなんだよっ! てめえはっ! てめえは、何様のつもりだっ! てめえだって負け犬じゃねえかっ! てめえは、何をしにきたんだっ!」

 安藤は涙目でどなりちらし髪を振り乱した。俺の首をつかんで前後に激しくゆさぶった。安藤の弱点をついたらしい。俺は真顔で言い返した。安藤の手を振り払いながら。 

「もういいかげんに目を覚ませ。安藤! 負け犬の俺達が、いまさらまともなレールに乗れるわけないだろうが。マイホームを建てるには、いい女と結婚しなくちゃならない。いい女と結婚するには、いい会社に就職しなくちゃならない。いい会社に就職するには、いい大学に入らなくちゃならない。

いい大学に入るには、いい高校に入らなくちゃならないんだ! そもそも、いい高校に入るには、自分の親が高学歴で教育熱心で金を持っている両親でなくちゃならない。おまえの親は、そういう親か? 東京大学卒業したか? 

 お前は逆境に立った時、真剣に逆境に向かっていけたのか? 勉強したのか? 頑張ったのか? 今のお前を見ればそんな事しなかったことくらい誰にでもわかる」

「だけど、だけど、でもでも……」

 安藤は酸素不足の金魚のように、口をぱくぱくさせていた。

 安藤の親が高学歴ではないのは聞くまでも無い。俺の親も同じだが。

「今の時代に安定なんてないんだよ。一流企業だっていつ倒産するかわからない。日本の国も借金だらけだし、一年後には崩壊するかもしれない。リーマンショック第二弾みたいな大不況が起きれば、世界が終わる。アメリカも中国もユーロ圏も借金だらけだ。

静岡は明日にでも南海トラフ大地震が起きるかもしれないぞ。地震と津波がおきて富士山が噴火すれば、静岡は完全におしまいだ。家も車も仕事もなくなるし、嫁も子供も死ぬかもしれない。何もかも無意味になるんだよ」

「じゃあ、なんだ? 俺は何を目標にして生きればいいんだ?」

 救いをもとめるような目で安藤が俺を見ていた。俺は強い口調で告げた。 

「生まれてきた以上はやりたい事をやって生きるだけだろ。最低限働いて、納税をする。安定収入を稼いだら、好きな事をやるんだ。もう俺たちには動画しかないんだ。もうまともな方法で成り上がることなんかできやしない。

他の人間とは、まったくちがう方法で勝負するしかないんだ。どうせ、いつかはみんな死ぬ。明日にだって死ぬかもしれない。だとしたら、死ぬまでにできることをやるだけだ」

 安藤は急に無言になった。怒ったり静かになったり落ち着きが無いやつだ。

「おまえがその気になれば、もう一度、仲間にしてやってもいい。でも、クソみたいな労働環境で働いて破滅する人生を送りたいなら止めないけどな。一生。奴隷のまま苦しみながら死ね」

 俺は最後に捨てぜりふを残すと立ち去った。

 内心、一度、挫折した動画制作という道を進みだすことには抵抗がある。

 散々、安藤に生まれかわれと言っておきながら、多分、明日はハローワークで仕事を探す。俺はひきょう者だ。

舌の根の乾かないうちから、リクルートの転職サイトにも登録するだろう。一人で生きるには人生は長すぎる。だが一人で事を成すには短すぎる。

一人で事を成すのは俺には不可能だとわかっていた。俺はひきょう者だ。そう思われても良い。今はただ、仲間が必要なのだ。


   七


「ジョーカーは来ますかね?」

「どうだろう? 分からないな」

 夏美の問いに俺は、あいまいな返事を返す。

俺と夏美は朝六時に自宅前で安藤を待っていた。

俺達はPVの追加シーンを撮影するために集まっていた。

猫のシーンを使うにはどうしても、あとワンシーン必要なのだ。 

 俺も夏美も前の撮影時と同じ衣装だ。楽器も用意してある。

 安藤にはLINEで追加の撮影シーンをとりたいから来るようにと指示を出してある。

 スマートホンを確認すると俺が出したメッセージは既読になっている。 

 安藤からの返事は無いが、読んでいるらしい。春は近づいている。

しかし、あいかわらず。朝は寒い。

 夏美は寒そうに真っ白な息を自分の両手にふきかけながら言った。

「もしジョーカーがこなかったら、どうします? ジョーカーのシーンは全部カットして、二人だけで撮りなおしますか? それとも、ジョーカーの歌もやめて、平松さんがかわりに歌いますか?」

「分からない。たぶん、歌は俺じゃだめだから、他のボーカルを探すことになるかも」

 俺は言ったが、たぶん無理だろうと思った。新しいボーカルを見つけて、コンテを書き直して、撮影をやりなおす。考えただけでぐったりする。

「私は今。動画の編集を猛勉強しているんですよ。ジョーカーが来て、追加シーンが無事に撮れたら私が動画の編集をやってもいいですか?」 

「すごいな。立花さんは。そこまでできるようになったの?」

「はい。あれから、色んな本を読んで自分で勉強したんです。ノーラン監督みたいな映像を作るためなら私はどんな努力だってしますよ。そして、すごい動画を撮って、クラスのリア充女子を見返してやるんです」

 夏美は両手で拳をにぎりしめると、興奮した口調で自分の野望を語った。

 俺も夏美に負けないようにがんばらないとなと思った。

 時計を見ると、すでに六時十五分を過ぎている。三十分まで待って安藤がこなかったら、二人だけで撮影しようと思った時。

「おーいっ! 待たせて悪かったなー! 前と同じ衣装を探すのにてまどったぜ!」

 見覚えのある汚らしい姿が道の角から姿をあらわした。安藤だった。

 走りながら俺たちにかけよってくる。

「やっぱり、俺はおまえたちに協力することにしたよ。たぶん、俺が歌をやめたら日本中のファンが悲しむだろう。ショックで自殺した女子高生が出たりしたら、こまるからさ」

 安藤は興奮した顔で早口でまくしたてた。撮影に参加する理由を聞くと、あいかわらず腹が立つが、許すことにする。この男に多くを求めても無駄だ。

「チーム再結成ですね」

 夏美が俺を見て笑いかけてきた。俺はうなずいた。残りの撮影シーンはあと、一つだけだ。うまくいけば、一時間以内に終わるだろう。

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