二章 声が聞こえたら、一歩だけ踏み出せ
一
朝六時には目を覚まして、行動することにしている。俺は毛玉だらけのスウェットの上下のまま、ゴミを捨てにゴミ捨て場まで歩いていく。
徒歩二分。それだって結構な距離だ。便所サンダルをはいて歩くと、適度に指先が外気に触れて冷たい。ゴミ捨て場に到着。高校生くらいの少女がビデオカメラを片手に猫の撮影をしているようだった。真っ黒い毛並みの小柄な痩せた猫だ。オスほどズングリムックリしていない所を見ると、多分、野良のメス猫だと思う。
銀縁眼鏡に真っ黒なショートヘアがよく似合う少女である。身長は俺より頭一つ小さいくらい。だいたいの身長は百六十センチってところだろうか。
見た目もブラウスにカーディガン。パンツはくたびれたように見えるジーンズ。
コンバースのオールスターを履いている。
地味な子だなと思った。なんで猫なんかビデオカメラで撮影しているのだ?
そう思いながらも、俺はゴミをゴミ捨て場に投げ込んだ。午前六時半には回収されてしまうが、日によってはやく取りに来る事があるからだ。
ふうっ、と息をつく。俺がゴミ捨て場に背を向ける。帰ろうとして後ろを振り向く。
本当に偶然だったのだが、そいつの姿に気づいた。
「いつまでも、そんな仕事をしてないで、ちゃんとした仕事探しな!」
「うるせえ! 俺にはやりたいことがあるんだよ!」
近所の民家から、母親と息子らしい、怒鳴りあいの声が聞こえた。男の声には聞き覚えがある。俺は足を止めた。視線を向けると、数メートル先の民家の前に安藤がいた。今まで気づかなかったが、安藤は俺の家の近くに引っ越して住んでいたらしい。
あんな嫌なやつが、そばにいるとは。つくづく俺は運がない男なんだなと思ってげんなりした。
安藤の母親は五十代後半ぐらい。体つきは大きい。顔も安藤にそっくりだ。安藤が年を取って、女装したらこんなふうになるかもしれない。あんまり、想像したくないけど。安藤の母親は、早口でわめいた。
「ヒマならハローワークに行ってきな! 日雇いの仕事じゃなくて、毎日働けるまともな仕事を見つけておいで!」
「うるせえ!」
安藤も顔を真っ赤にして、すさまじい勢いでまくしたてる。かなり醜い親子のバトルだ。
「あんたの同級生は、みんな、まともな職についてるよ! 結婚して、子供がいる人だっているよ! お母さんは、体裁が悪くてしょうがないよ! 三十近い息子が定職にもつかないで、ぶらぶらしてたんじゃっ!」
「うるせえ! 俺はフツーの人間とはちがう! 特別なことをして、有名になってやるんだっ!」
安藤は近所にひびきわたるような大声でわめきちらすと、走り出した。
途中で俺と目が合った。ぞくりとした。また、こいつにいじめられるかと思ったのだ。
しかし、安藤はばつが悪そうに、チッとわざとらしく舌打ちをした。
体の向きを変えて角をまがり、姿を消した。なんだか嫌な事があったばかりなので、少し気が重かった。誰かを故意に傷つけても良い気分がしない。背中に余計な物を背負ったような気分だ。
来た時と同じ道を歩く。先ほどの少女が十分近くたっているにもかかわらず、ビデオカメラで猫の姿を撮影していた。
少女が何をしているのか興味があるものの、ただ見つめているだけってのもなんだか変だよな。
「さっきの人、ジョーカーみたいだなぁ。狂っているけど、ジョーカーよりははるかに頭が悪そう」
カメラを猫に向けたまま、チラリとこちらを見て、すぐまたカメラのファインダーに視線を移した。
「君はバットマンが好きなの?」
俺は思わずたずねてしまった。いきなり、知らない男から声をかけられたことにおどろいた様子だったが
「そうです。あの人は、ティムバートン監督のジョーカーに似ていますね。太ってるから」
そういって少女はほほ笑んだ。少女はニコっと笑ってこちらを見たが、カメラのファインダーに意識は集中しているようだった。
「何を撮ってるの?」
「猫を撮ってるだけです」
そういってまたカメラのファインダーに目を移した。
「猫が好きなのかい?」
一呼吸置いて、もう一度、尋ねてみる。
「猫は猫でも、私は特別な猫がすきなんです」
どこかわずらわしそうなニュアンスの声だった。特別な猫とは?
この子は、この目の前にいる猫が特別だと言っている。
どういう意味なのだろう。とはいえ聞いてもはぐらかされそうである。
「君は何か学校の宿題とか、短篇映画とか撮ろうとしているのかい? YOUTUBEか何かに上げるの?」
少女は何も答えない。ただ、だまって目の前にいる猫の撮影をつづけている。
「俺も昔、YOUTUBEに動画を載せていたことあるんだよ」
「……そうなんですか?」
少女がこちらをチラっと見た。
「おじさんも動画とか撮るんですね。どんな動画を撮ってたんですか?」
「いや、まだ二十九なんでお兄さんと呼んでくれよ。君のジャスト二倍くらいは生きているかもしれないけどさ。俺はゲーム実況がはやっていた頃にそういうのを上げていたよ」
俺は自分が思っているよりも老けているのかもしれない。しかし若い子におじさんって言われたのは少々ショックでもある。
やっぱり会社でのストレスで老けて見えるようになっちゃったのかな。
「実写撮影は仲のいい大学のサークル友達とPVを撮ったりしていたよ。今も自分の音楽のPVを作ってる」
少女は俺をみて、ニヤっと笑った。
「お兄さん、名前はなんていうんですか?ハンドルネームでもいいですけど」
「俺の名前?平松博だよ。ハンドルネームはヒロシ。パラドックスっていう動画サークルで実写PVとか上げているよ。詳しくはYOUTUBEを見てくれよ」
そこまで伝えたところで、少女は荷物をまとめた。
「あっ! 待って!」
少女が猫を追いかけて走っていく。
「私は、バットマンはノーラン監督のほうが好きです」
少女は無表情に捨て台詞を残して走り去る。自己紹介がまだだよな。そう思いながら部屋に戻った。猫はどこにでもいるような猫に見えた。なぜあんなことをしていたのだろう?
一日がたつのは速いと感じるのは、年を食ったからだろうか。
仕事が終わり、帰宅してすぐにパソコンの電源ボタンを押す。YOUTUBEに動画を上げようと思って、YOUTUBEにログインすると、新着のメッセージのついている動画を見つけた。
大学時代にパラドックスという今と同名のサークルをやっていた時に作っていたPVへのコメントだ。
ずいぶん前に投稿した動画なので、最近はほとんどコメントなんてつかなかった。
コメントを見る。そこには朝にあった少女のコメントがついていた。
『素敵な動画ですね。もしよかったらツイッターでお話しませんか?』と書かれていた。一瞬、業者なのではないかと思ってしまったが、サムネイルの顔写真は確かに今日の朝あった少女と同じ顔だ。
少女のアカウントをクリックする。ツイッターへのリンクが貼ってあった。ツイッターのメッセージ機能のダイレクトメッセージで『こんばんは。コメントありがとうございます。色々、絡みができたら幸いです。よろしくおねがいします』と送った。
ほどなくして、ダイレクトメッセージが飛んできた。
『立花夏美って言います。動画を撮っていたって事は編集もしたことあるんですよね?』
『編集用のソフトを持っているから、それを使っていつも編集しているよ。結構骨が折れるけど、大好きな作業だよ』
『じゃぁ、もしよかったら今度教えてもらいに行っても良いですか? 私、パソコン音痴だし、編集の仕方とか撮影のコツとかわからない事だらけだから、色々教えてください』
少女はネットでは意外と雄弁だった。少女と話していると不思議と安藤とあった事も不快な気持になったことも忘れることができた。
俺はきっとこういう風な友達を増やしたいのだろうな。きっと安藤みたいなまともとは言い難い連中じゃなくて、この立花夏美さんのような普通の人との交流を欲している。 そうだ、久しぶりにミクシィでもやってみよう。
二
会社生活が長くなると、不条理にも対応できるようになるのだと実感していた。
「サービス残業なんて今の社会じゃザラだから断るなら辞めても構わないんだぞ」
社長は煙草をくゆらせながら、不機嫌そうに言った。
早く仕事を終わらせてジムに行くつもりだったが、どうやらそれは叶わないらしい。
イライラした。その傲慢な言い方もそうだが、それ以上に俺を見下し人の努力をせせら笑うその表情が気に入らなかった。
「そのしかめっつらはなんだ?」
社長は俺の顔を睨みつけながら、不機嫌そうに低い声で言った。気づかず俺の表情は社長から見て反抗的に映る顔をしていたらしい。
「そのしかめっつらはなんなんだ?」
もう一度、社長は繰り返した。俺は小さくため息をつき「なんでもありません」と言った。トイレ前の水飲み場で顔を洗おう。階段を下りて、冬の外気で冷たくなった蛇口をひねると、キンキンに冷えた水が出た。
俺は顔を洗い、もう一度、二階の検査室に戻る。階段の真ん中の段で、社長は仁王立ちしていた。嫌な予感がした。
社長は得意の前蹴りで俺の体を蹴飛ばした。軸をずらしてよけるつもりだったが、存外、体は言う事を聞かず、手すりにつかまらなかったら、多分、頭から踊り場に転落していただろう。
「気をつけろ。筋トレ中毒の肉団子が」
階段の上から見下ろしながら社長は言った。俺はその日、心の中で二度社長を殺した。
俺の活躍の場は仕事場ではない。仕事以外にあるんだ。そう実感した。こんな会社にいる間は俺の人生が好転する事はないんだろうな。仕事とは自己実現と金を得る手段。
どちらも叶わないなら、一体、何を目標にして生きたらいいのだろう。
やはり趣味や未来につながるキャリアアップと言うことになるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなっていく。俺は何をして生きたいのだ?
結局、痛みは抜けなかった。俺は外科に行って、診断書を書いてもらうことにした。全治三週間の打撲だった。労災おりないかな?
三
苦節、数週間にして、ようやく一つの書き込みがあった。これまでの努力が実った瞬間でもあった。「鈴」という女性だった。どうやら実写PVに興味があるらしい。俺が昔作った動画のリンクをたどって、ミクシィのコミュニティにたどり着いたという。
浜松市に住むという鈴さんは、時間がある時に一度顔合わせをしたいとのことだった。プロフィール写真を見る。俺はビックリした。鈴とは大学時代の同級生の鈴原ミコトだった。俺が大学時代に恋い焦がれたが、彼女は中途退学していて、連絡もできずそれっきりになってしまっていた。
なんて奇遇だ。彼女も俺の顔写真を見て気づいているんじゃないだろうか。そう思った。
俺は仲間ができそうな気配を感じて、毎日のようにメッセージを送った。
『こんばんは。鈴さん。コミュに興味を持ってくれてありがとう。もしよかったら少し話しませんか?』
『ヒロシさん、こんばんは。LINEでメッセージを交換しませんか?』
割とアッサリと話は進んだ。そうして同じ大学の話をした時、お互いがお互いである事に自覚的になった。
LINEという連絡の取れるアプリがある。会話形式で複数の登録メンバーとメッセージを送信できるサービスで、年を気にせず、多くの人が使用しているサービスである。
イメージとしてはMSNメッセンジャーやスカイプのメッセージ機能などのサービスに近いと思う。電話回線よりも音質のいい通話機能もあるので便利だ。
『ヒロシさんは、昔、JACK.ってバンドでギターをやっていませんでしたか?』
俺はそこで確信に変わった。やはり鈴さんは鈴原であると。
『やっぱり鈴さんは鈴原ミコトさんなんですね? お久しぶりです。JACK.の平松です。もしよかったら会いませんか?』
『では二月十日に浜松駅改札で午前十時に集合しましょう』
『いいですね。ではその時間にお待ちしています』と相成った。今日は浜松駅で待ち合わせ。雲ひとつない真っ青な空が広がっている。肌寒く、息は白い。
「あれから、どんな風に変わったかな? 美人になっているかな?」
不安と楽しみで高鳴る胸の鼓動が抑えきれない。俺はLINEや携帯で会話をしたとしても、顔写真は交換しない。
どっちみちキレイに撮れている写真しか送ってこないから、実際に会ってガッカリする事を恐れたからだ。
ネットで出会った女子とのやり取りから理解したことだった。ミクシィコミュの参加者もたいして変わらないと思う。なにより今日は相手の素性を知っている。
そうして、待ち合わせの時間になり改札を降りてくる女性。LINEで知らせてくれた服装と合致する女性を見つけた。やはりそこには昔、俺が恋い焦がれた女性が立っていた。
「鈴原さんじゃないか」
その女性は確かに鈴原ミコトだった。白いワンピースにベージュのコートをまとい、きらびやかな茶色のロングヘアがしっくりくる。
けして顔立ちはものすごく美しいわけではない。あえていうなら十人並み。でもその人当たりのいい笑顔は魅力的だ。ふっくらとしたその丸顔も体型も正直言って、俺の理想に近い感じだった。角ばっていない女性らしい体型をしている。
背丈は少し高くて、ブーツを履くと、俺と同じくらいの身長になっている。割と体は大きめで頑丈そうな印象を人に与えるな。と思った。
そんな俺が大学時代にずっと恋い焦がれた女性が立っていた。彼女は大学を中退してしまったから、告白する前に俺の前から姿を消してしまった。
まさかこんな形で再開するとは思わなかった。まるで運命みたいだ。ミクシィコミュで出会った女の子が、昔ずっと憧れていた鈴原さんだなんて。希望しか感じないような出会いだ。
「平松君じゃない。私の事、覚えてる? 久しぶり~」
茶色のロングヘアがすごく似合っていて素敵だと思った。
向こうも俺の事を覚えていたらしい。久しぶりの再会に話は弾んだ。彼女が大学を辞めた三年生までの思い出話に花が咲いた。
大学時代、一緒に「JACK.」というバンドをやっていた事。彼女がボーカルで俺はギター。自分たちで撮った実写PVの事。それから彼女が辞めた後の大学の事や、彼女が辞めた後にしてきた事とか、なんでも話すネタは尽きる事がなかった。
どうやら、初めから鈴原はミクシィの募集記事をあげている俺の事に気づいていたようだった。それとなくその話をすると、サプライズは会った方が面白いじゃないと笑った。
楽しい時間だった。駅近くのファミリーレストランで食事をとりながら、話は面白いくらいに膨らんでいった。
大学時代は楽しかった。あの頃はよかったなぁ、とすら思う。鈴原と話すと、あの当時の事が頭の中を駆け巡ってなんだか幸せな気分に包まれていくみたいだった。
「平松君は動画の才能があるよね。今も何か撮っているの?」
鈴原はそう切り出してきた。
「自分の音楽のPVを作っているんだ。鈴原も一緒にやらないか?」
鈴原は、一瞬、言葉を止めると、俺の目をじっと見た。
「また音楽のPVを作るんだ?すごいじゃん。手伝わせてくれるなら、一緒にやりたいな」
鈴原は俺の事をわかってくれる唯一の女性なんじゃないかとすら思ってしまう。
一緒にまた共同作業ができたら楽しいだろうな。目の奥が熱くなるのを感じた。
「平松君は今、どんな仕事してるの?」
そう聞く彼女に「充実感のある仕事だよ。自動車部品工場で管理職やってるんだ」
そう答えることにした。とてもブラック企業で社長のイジメの標的にされているなどとは言えなかった。嘘をつくことに、ちくりと良心が痛んだ。自分の小さなプライドを守る事。そんな事に意味があるとは思えなかったけど、彼女の前でカッコつけたかったということは否定できなかった。
「私はね。今は雑誌でライターやってるんだよ~。バンドのライブを追っかけて、ライブレポ書いたり、PVを紹介したりしてるんだよ~。だから平松君のPV興味あるよ」
そういう彼女は満面の笑み。本当に仕事が楽しくてしょうがないといった様子だった。まるで俺とは正反対だな。そう思った。でも彼女ともう一度会えたのはうれしかった。
帰り際に連絡先を交換して、また遊びに行こうと声をかけた。次の約束をその場ではしなかったが、連絡が取れる予感があった。
「平松君の手って真っ黒だけど、仕事している人らしくてカッコいいね。また動画撮りなよ。私は平松君の撮る映像の大ファンだったよ。今だから言うけどね」
鈴原さんは別れ際にそう言った。俺は卒業後も動画を撮り続けていたけど、芸術性のある映画を撮ってきたわけじゃなかったし、PVのようなものを撮ってもいなかった。楽しいデートだった。
午前十時に駅に集合し、昼飯をアクトシティ内のベーカリーで食べた。そのあとは、街をブラブラと歩きながら、ずっと話をしていた。
俺はあまり浜松駅前に詳しいわけではなかったので、どちらかと言えば、彼女にリードされている形になっていたようにも思う。役割分担が逆だったな、と自嘲してしまった。
なんだか無性に、物を作りたい。自分のできる表現を、世界に発してみたい。
「撮るよ。だからまた鈴原さんに俺のとった映像を見てほしい」
手を振る彼女に向かってそう言った。声が聞こえたのかは分からなかったが、少し彼女はうれしそうな顔をしていた。
帰宅すると俺は作曲を始めた。青い鳥の歌詞はテキストファイルに落とし込んである。曲は既に頭の中にあった。大まかな構想や曲調は決まっている。
後は音源として落とし込むだけ。
俺はメインPCの前に座り、DTM(デスクトップミュージック)・DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)ソフトの「SONAR X2」を起動した。
俺はギターもキーボードも弾けるので、曲を形にするのにはさほど時間はいらなかった。ただ、ドラムの打ち込みだけは面倒くさいなと思っている。MIDIキーボードからDAWソフトに落とし込む時にはリアルタイム入力が可能なのだけど、
どうしてもドラムだけはうまく打ち込めないので、全部、手打ちでリズムを刻むことになる。強さから何もかもをパラメータや数値で管理するのは、結構手間なのである。
逆にいえばドラムさえ入力してしまえば、後は自分の頭にある楽曲をそのままPC上に落とし込めるのでそこは楽だともいえた。
ドラムを打ち込み終わって、一息。だがそこからは思っていたように曲が作れない。実際に楽器を演奏してみると、頭の中にあるイメージと全然違う音が出てしまう。
なんだか暗礁に乗り上げた気がする。俺はパソコンを閉じると、コーヒーを飲んで、ベッドに横になった。
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