第16話 まとめて抱きしめよう。
何でそうしたかは判らなかった。ただ無性に嬉しかったのだ。そして、紗里とは違う、また別の感触に、俺は少しばかり驚いた。昨夜は逃げた、あの。
どのくらいそうしていただろう。はずみで、鍵盤が音を立てた。俺はそれを耳にした時、ようやく我に帰った。腕を緩め、キーボードを横に避けた。
微かに上気した顔で、奴は俺に訊ねた。
「本当に、あれで、いいの?」
「ああもちろん。驚いた。どうしてお前、判るんだ?」
「俺だって判らないよ、どうしてか、なんて。だけど、何となく、こういう感じかな、ってふっと思ったんだ。ねえオズさん今まで曲作ったこと、本当に、ないの?」
「ない」
俺はきっぱりと言った。情けないことだが、本当に、無い。
「俺はさマキノ、頭の中で、こう、ぼんやりと何か音や情景が流れていることはあるんだ。今みたいにさ」
マキノはうなづく。
「だけど俺には、それを外に、形にして引き出すためのものが俺にはないんだ」
「だけど、俺には判ったよ? ……間違っていないのだったら、オズさんが、どんな情景を見て、どんな音を組み立てたがってるのか」
「見えるのか?」
奴はふら、と首を横に振る。
「そうじゃない、と思う。でも、何となく、判るんだ。ほら、あの、俺がピアノを入れたとこ、あそこは俺は、夏の夕方とか、考えてたんだけど…… あのピアノの音は、あれはビアホールだよ。だから音が狂ってても平気なんだ。そんな時のピアノは、弾くんじゃなくて、叩くんだ。調子っぱずれの歌声に負けない程に」
「……そうだよ」
「そんな情景なの? やっぱり」
「うん」
「どうして判るんだろ? すごく不思議だ。だって俺、結局彼に関しては、全然判らなかった。すごく知りたかったのに、結局最後まで彼が何考えてるのか、全然判らなかったのに」
「マキノ……」
「どうしてオズさんは、判るんだろう?」
マキノは首をかしげる。俺は、何となく自分がその理由を知っているような気がしていた。だけど、やや話をそらしてみる。何となく、その言葉の向こうには。
「でもワルツにされるとは思わなかったな」
「俺結構好きだよ。ピアノ曲にも結構あるし」
「でもワルツと言ってて、ワルツっぽくない奴も結構あると思うけど…… お前さっきショパンやったろ? 犬の奴って無かったっけ?何かガキの頃、音楽の授業か何かで聴いた気がするんだけど」
「『子犬のワルツ』?……だよね。ああ、あれはずいぶん音符が動き回っているから……」
と言って、キーボードを引き寄せると、マキノは音を「抑えたピアノ」に変え、細かく指を鍵盤に走らせた。
確かに左手のベース音は、三拍子を奏でている。だが右手の軽やかさが、それに気付かせない。
ふっと音に合わせて身体が動く時、一拍、背中に残るような感覚がある。それに気付いた時、ああこれはワルツだったかな、とやっと思い出すのだ。
「何か不安定でしょ」
そんな俺の気持ちを見すかしたかのように、奴は手を止めた。
「何かね、こうゆうのって、彼と居たときに、時々感じていた気分と、ちょっと似てるんだ」
やはり話はそこに振り返すのか。
「ワルツと?」
「俺さ、前、彼と居た時、何かね、いつももう一人が、そこに居るような気がしてたんだ。もうそこには居ないはずの人なのに」
「居ない人」
「俺と会うずっと前に、死んでしまった彼の友達」
ああ、そういう人が居たのか。
「そういう感情が、彼にあったかどうかは、結局俺には本当には判らなかったけれど」
嘘だ、と俺は思った。
「でも死んでしまったからこそ、その人は、ずっと彼にまとわりついてた。もちろん幽霊がどうの、というんじゃないよ?確かにそんなことが、そんな人が、居たんだ、っていう、影みたいなもの」
三拍子の、最後の一拍が、耳の後ろに聞こえてくる。
「何か、結局、俺はそのひとに勝てなかった気がする」
「そんなこと」
「そんなことって、オズさん判るの?」
「……判らないけど」
猫の瞳が、俺を見据えた。真正面から。昨夜と状況は、似ていた。だけど、昨夜とは明かに違う。
俺は大きく息をつき、覚悟を決めた。
「でも、そんなことは、俺は、どうだっていいと、思う」
今度は、逃げない。
「オズさん?」
「俺にだって、そのまとわりついてる何か、がお前の後ろに見えるよ」
「……」
「もちろん目に見えるってのじゃないよ。だけど、お前の後ろに、誰かが居るのは、見えるんだ。でも俺は、そんなことはどうでもいいんだ」
何となく猫の瞳は困ったように細められる。俺は手を伸ばした。ぴく、と触れた頬が震えるのが判った。
「俺だって聞きたいよ。どうして俺の中の『音』が見える?」
「判らないよ。だけど判るんだ。たぶん俺、そういう腕はあるよ。誰かが望めば、あんたのような言い方じゃなくても、断片をちゃんと聞かせてくれれば、それを音にすること、できると思うよ。だけど、それが『見えた』のはあんただけだもの。俺が聞きたいよ」
「それはなマキノ」
俺はそういうと、奴を引き寄せた。昨夜と立場は逆転した。猫の瞳は大きく一瞬開いたが、すぐにそれは伏せられた。条件反射のように奴の細い腕は俺の首に回された。
「……そうなんだ」
息を大きくつきながら、奴は離れた唇から言葉を滑らせた。
「俺を、欲しがってる?」
「ああ」
「あのひとは、俺を、欲しがってはなかった?」
「それは俺の知ることじゃないよ」
奴はううん、と首を大きく振った。
「違うよ俺は知ってたんだ。知らないふりしてた。あのひとは俺を欲しがってはいなかった。俺が欲しがるから応えてくれていたけど。だから俺は、あのひとの音を見つけることができなかったんだ」
俺はいきなり感情的に、上ずっていくその声を、黙って聞いていた。それは、奴にも止められない何かが、声を奴の中から押し出しているようにも感じられた。
「あんたは俺を、欲しがってる。だから、俺には判るんだ。俺にはあんたの音が見つけられるんだ。俺に向けられた、何かが、あんたにはあるから」
そうだよ、と俺はうなづいた。そうだったんだ、と奴は回したままの腕に力を込めた。勢い余って、俺は背中から床に倒れ込んだ。
大丈夫?と奴は訊ねる。俺は大丈夫、と同じ言葉を返す。くくく、と奴は笑った。
「……昨夜の続き、しない?」
「続き?」
なるほどそれも悪くはないな、と俺は一瞬思った。
だが。
「なあマキノ」
「何?」
「したくないって言ったら嘘になるけど…… 俺達これからは、もっと、そうじゃないことでも、遊ぼう」
「嫌なの?」
「嫌じゃない。ケンショーがああいう奴だから、俺は別にそういうのは平気だと思う。けど、俺は、あいにくよくばりだから、そういうお前以外とも、やってきたいんだよ」
「普通に? 寝るだけじゃなくて」
「週末に来ればいいさ。あんな所で誰か待ったりせずに、ここに。だけど寝るだけじゃなく、もっといろんなことしよう。普通に食事したり、適当にどうでもいい話したり、一緒にTV見て馬鹿な批評したり」
「それに、曲作ったり?」
「そう」
そだね、と奴は言って、くすくすと笑った。
正直言って、奴の後ろに居る「あのひと」、吉衛さんのことが全く頭に無い訳ではなかった。だがそれは、消せと言われて消せる訳じゃない。
だから俺は、それもまとめて抱きしめようと思った。
抱きしめる俺の力が強ければ、「それ」はいつか消えていくかもしれない。消えないかもしれない。
だがそれはどうでもいいことなのだ。ここにこうやっている、この相手が手の中にあるのなら。
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