1−9
加那は明け方近くに目を覚ました。両親の諍いで起こされたのではない。
(何だかいつもと違う……)
周囲を見渡そうとして、ベッドへ伏せて倒れ込んでいる誰かに気づく。
「きゃっ」
加那は飛び起きた。
慌てて、電気のリモコンに手を伸ばし、電気をつける。
眩しい中で目を瞬くと、スーツ姿の男が、自身のベッドへもたれ掛かるようにして倒れ込んでいた。
お母さん! と叫びかけて、途端に部屋中にあの柔らかく良い香りが充満しているのに気づいた。
心臓は驚きでドキドキと高鳴っている。男が目を覚ましたらどうしようという不安も同時に襲ってきた。
だが同時に、なぜかこの人は大丈夫……という懐かしさにも似た妙な安心感もあった。
加那は深呼吸し、ベッドの角へ体を寄せて、眠っている男を仔細に眺めた。
俯いているので表情まではよく見えないがまだ若い……二十代半ばだろうか。
黒髪に、今はズレてしまっているが黒縁眼鏡をかけている。目立つ容姿ではないが特別醜い……という風でもなさそうだった。
汚い身なりでもない。
加那は部屋の中を見渡した。
窓を見ても鍵はかかっており、自室の部屋の扉も閉まっている。
自身も、特に変わったところはなかった。何もされていない。多分。
ふと、ベッド脇の机の下を覗き込んだ。
ウサギがいなくなっている。この男がどうかしてしまったのだろうか。それとも、男が侵入した際に逃げた……?
そうこうしているうちに、男が微かに動いた。
小さく唸り、起き上がろうとする。
「う……ん」
加那は起き上がりこちらを見た男に、思わず近寄りしっと自身の唇に指を当てて黙るよう示した。
男が目を丸くして、加那を見る。それから、コクリと頷くと自身の口元に手を当てて喋らないというジェスチャーをした。
加那は再度ベッドの端まで逃げ男と十分に距離を取ると、小声で話しかけた。
「あなたは、誰? どうしてここに?」
男は自身の口から手を外した。そして加那を驚かさないためにか、座ったままそろりと一歩ほどベッドから遠ざかった。
「分からないんです……気づいたら、ここにいいた」
男が小さく、低い声で話す。男が喋ると最前からしていた花のような良い香りが、男から発生られているのだということが分かった。ウサギと同じ匂いだ。
「分からないって……」
加那は布団を引き寄せて抱きしめる。身を守るつもりではなかったが、不安感がそうさせた。
どうも生真面目な性格らしく、男は床の上に正座した。眼鏡を指で直して加那を真っ直ぐに見る。
「あの……公園のベンチの上で、寝込んで閉まったのは覚えているんです。そこからは、記憶がありません……」
「公園のベンチって、あのツツジの脇の?」
加那は驚いて聞き返した。ウサギを拾ったツツジの脇には確かベンチがあった。
「そうです。そこで具合が悪くなって、眠り込んでしまって……懐かしいような心地良い香り……この匂いは覚えているんですけど」
加那は考え込んだ。
男性は加那を見つめている。その目に嘘はないように見えた。
「あの、少し……」
男が加那に話しかけてきた。正座が崩れて、辛そうに肩で息をしている。男が加那を見上げた。
「少し、まだ……きっとお話しなければならないんですけど、僕、また気分が……」
男性が震えだした。
加那は近寄ろうか、このままにしておこうかと迷う。
本当なら助けたいが、近寄るのはまだ怖い。
そのうちにも男性はとうとう手をついて、四肢で体を支えている。今にも崩れそうだった。
「あの!」
加那は意を決して男性の方へにじり寄った。
そして、その変化は始まった。
男性の衣服がふわりと膨らみ薄茶の毛皮へと変わる。四肢は縮み、身体も小さく小さくなっていく。背中は盛り上がり、四足で立つのに最適な形へと体が変化する。口吻が突き出し、耳が伸びて、獣の顔になっていった。
体が縮み終わると、目の前には男性ではなく、加那が拾ったウサギが目の前にいた。
薄茶色の毛皮に、額から鼻にかけて白い毛が生えたウサギが加那を見上げる。
鼻がヒクヒクと動いていた。
一人と一匹はお互いを見つめ合う。
ウサギが先程の男の声で喋った。
「あの……申し遅れましたが、神功満と言います」
そんな、あり得ない。けれど、この部屋に満たされる香りといい、場所といい、今見たものからたどり着く結論は一つだった。
受けれるしかないのだろう、この現実を。
加那は毒気を抜かれてベッドの上で、ウサギに対して正座をした。
「浅葱、加那です……よろしく」
ウサギがちょこんと座っている部屋に加那の静かな声が響いた。
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