1−8

 加那は公園で悩んでいた。

 時刻は夜の9時前だった。

 周囲は人通りもなく、加那の頭上では電灯がぼんやりとした光を落としている。

 今日は一日中、学校でも駅前のコーヒー店でも、朝に見かけたウサギのことが気になっていた。

 なぜかは分からない。けれど、心の隅にあのウサギのことが引っかかて離れない。

 だからいつもより早く店を出て、ここに戻って来た。

 加那はしゃがんで、垣根の隙間を覗き込む。

 ウサギは朝と変わらずに垣根の下の方で蹲っていた。

 加那はそっと手を伸ばして、ウサギの耳の先に触れる。

 逃げるようなら仕方ないと思っていたけれど、ウサギは逃げなかった。

 薄く目を開けて、弱しくヒクヒクと鼻を動かす。

 毛の柔らかな感触が指先に感じられた。

「おいで……」

 そっと加那は声をかけた。応えるようにウサギは首を伸ばして加那の方へ来ようとする。

 しかしそれ以上動けないようだった。

(……連れて帰ろう)

 まる一日ここにいて、ウサギは衰弱しきっているようだった。

 この時刻だ。周囲に飼い主が居るわけでもないだろう。

 指を体の下に入れて持ち上げるとウサギはぐんにゃりと力なく伸びてしまう。

 腕に抱くと微かに花のような良い香りがした。それは何だか懐かしくも感じる匂いだった。

(やっぱりどこかの家から逃げてきたのかな)

 こんなに良い匂いのするウサギが、長い間ずっと外にいたとも思えない。 

 ぼんやりとウサギが目を開けて、再度加那を見た。

「飼い主、探してあげる」

 その間、自分の家で預かろう。親は親で好き勝手やっているのだ。自分だってこれくらいしたって良いだろう。

 そう決めて、加那はウサギを腕に自宅へと戻っていった。


 しかし、やはり家ではウサギを抱いた加那と、珍しく揃っていた両親とでひと悶着あった。

「世話が見れるの?」

「誰が世話をするんだ?」

 というのが母親父親のそれぞれの意見だった。

 こんな時は意見が一致するんだと、白けた気分で思いながら加那は

「飼い主見つかるまでだし、私が世話するから」

 と押し切る。

 強く、意見を曲げない意志を感じ取ったのか、押し問答の末両親は黙ってしまった。

 加那は納戸から使われていないタオルとダンボールを出してきて、即席の巣箱を作る。

 その巣箱はとりあえずと、ベッドの側の机の下に置いた。邪魔な椅子をどける。ここで勉強することはまずないから、すっきりしたものだ。

 ウサギはタオルの上に下ろすと、そろりと周囲を見渡す仕草をして、そのまま目を閉じ動かなくなった。眠ってしまったようだった。

「……頑張れ」

 水の器も側に置いて、加那は呟いた。ウサギからは相変わらず良い匂いがして、怪我をしている様子もない。食べてくれさえすれば大丈夫だろう。

(うさぎって、何を食べるんだっけ……)

 加那はベッドへ寝転がり、スマホでウサギのことについて調べ始める。

 何だか、浮かれた気分だった。家でそんな気分になることは久しくなくて、加那は嬉しかった。

 

 深夜。

 満は闇の中で目を覚ました。

 体の痛みはほとんど引いていた。

 一体何が起こったのか何も覚えていない。

 何日か前にたどり着いた公園のベンチまでの記憶はあった。

 動くこともできずにベンチの上にいた筈だった。

(いや、誰かがいた筈だ……良い匂いのする、懐かしい……)

 満は体に力を入れてみた。動ける、起き上がれる。

 目も……見える。周囲が暗いだけだ。

 どこだろうここは。

 満は首を動かして目を凝らした。

 見たことのない部屋のカーペットの床に、満はスーツ姿で寝転んでいるのだった。

 体を起こし、腕を伸ばして探ると、ベッドに手の甲が触れた。

 誰かが寝ている。

 そうっと満はベッドから身を離そうとした。

 ここがどこだろうと、起こしてはいけない。

 匿われたのか、捕らえられたのか、それとも意識のない自分が侵入してしまったのか。

 その記憶が満にはないのだ。

 早くここを立ち去るしかない。

 そこに、ふわりと懐かしく柔らかな匂いがした。

(彼女と、同じ匂いだ……!)

 全身が歓喜でぞわりと粟立つ。

 満は思わず出そうになる声を、必死に口を押さえることで飲み込んだ。

(違う、彼女じゃない……けれど、これは)

 もちろん、ここで寝ているのは彼女ではない。彼女は死んでしまった。自分の主人は。

 だが、本能が告げていた。

 闇の中で見えないが、ここにいる人間が新しい主だと。

「……っ」

 堪えきれず涙が溢れた。

 彼女の死はまだ受け入れられない、けれどほんの少しの光が見えた気がした。

『弱虫ね』と笑う彼女が見えた気がした。『弱虫ね。けど、あなたらしいわ』そう笑う彼女が。

 暗くてベッドで眠っている人間の姿は見えないが、若い女性のようだった。

 それ以上は体力が持たず、満はその場にへたり込んだ。

 顔を腕で覆って、溢れる涙を押さえきれずに、声を押し殺し泣く。

 そのままベッドへともたれ掛かるようにして、満は眠り込んでしまった。

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