1−7

 満は職場から何も持たずに出た後に、街をさまよった。

 彼女と過ごした自宅に帰ろうかとも一瞬思ったが、寂しくて悲しくて帰れなかった。

 また、血縁関係も何もない自分が居るべき場所ではないとも思った。

 どこにも行く場所がなかった。

(また、さまよわなければならないのか)

 そういう思いが浮かんでくる端から、彼女の死が悲しくて涙が溢れる。

 泣きながら街を歩いた。

 途中何人かに声をかけられたが、違うと思った。

 違う。彼女ではない。彼でもない。

 自分が、従いついていく相手は……。

 何日もさまよった。

 一週間近く何も口にしていなかったが、飢えと渇き以上に心が辛かった。

 不思議なことに雨に振られても、転んでも、満の衣服は大して汚れなかった。

 その限界は突然にきた。

 ふらふらと、ある公園にたどり着いた時だった。

 もう歩くことは疎か、立っていることさえ難しいほどに満は疲れていた。

 そこはなんだか安心する場所だった。

 ツツジの垣根の近くに、ベンチがあり、そこに満は座り込んだ。

 体中が軋むように痛む。

 特に足は、靴の中で、足の爪が割れているのではないかというほどの激痛だった。

 頭痛がする。

 何日か雨に振られたせいもあるのか悪寒がひどかった。

 満はベンチの上で丸くなって横たわった。

 懐かしい彼女のことを、思い出していた。

 姿形が二十年以上も変わらない自分を慈しんでくれた彼女。

 先に老いて、病に侵され、死んでしまった彼女。

 一緒に逝くことができればよかったのに……。

(なんで、自分はまだここにいるのだろう……)

 死を選ぶという気持ちには現実味がなかった。果たして、自分は死ねるのかというのかさえ分からない。

 横を向いて丸くなっていると、また目尻から涙が流れ落ちた。

 全身が、痛い。窮屈だ。開放されたい。

 満は目を閉じた。

 そのまま、意識を失い、初めて彼女に会ったときのことを短い夢に見た。


 二十数年前。

 一所に長く居れない満は、その日暮らすのもやっとという窮状で、家もなくさまよい歩いていた。

 そしてふと、どこからか心地よく花のような香りがするのに気づいた。

 行く当てなどない。満は路地を匂いを追いかけるようにただただ歩いた。

 その時、不意にある家の裏口、木戸が僅かに開いているのに気づいた。

 そこから満は家の敷地に入り込んだ。

 追い出されるのも覚悟だった。

 そこにはまだ初老の、一人の女性が洗濯物を干していた。

 彼女は眩しいばかりに輝いていて、良い香りが辺りに充満していた。

(ああ、彼女だ)

 そう思ったのを覚えている。自分が探していた人。側に居るべき人。主人。

 彼女はおひさまのような笑顔でこう言ったのだ。

「あら……見つかってしまったのね」

 満へ手を差し出す。

 満は何の疑問も持たずにその手を取った。

(この人だ……この人が、僕の……)


 満は短い夢から覚めた。

 懐かしい、心地よい香りが辺りに充満していた。

 いつまでもこの中でまどろんでいたい気分がする程の心地よい。

 気のせいか、体の痛みも幾分マシになっているようだった。

 自分の主人だった老女を思い出して、満は耳をピクリと動かしてゆっくりと目を開けてみる。

あのときの、彼女に初めて出会った時の感覚に似ていた。

 満は頑張って目を開けて周囲を見渡す。目の前の誰かが近寄ってくれているのがわかるから、精一杯首を伸ばす。

(駄目だ……何も見えない)

 疲れすぎたのだろうか。目を開けている感覚さえない。ぼやけて光だけが見えた。

 しかも、良い匂いも光も、しばらくすると去ってしまった。

(どうして……?)

 目の前の誰かが、彼女でないことは分かっていた。けれど、どうしようもなく懐かしい香り。もう一度、彼女と会いたい。

 満はそう思いながらもまた意識を手放した。

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