1−3
神功満は仕事中にはっと立ち上がった。
「亡くなった……」
つい、声に出して呟く。
自分の主人が、今、息を引き取ったのが満には分かった。
「おい……? どうした、何が無くなったんだ?」
隣の同僚が怪訝そうに満を見上げた。
小さな、染料を扱う商社の事務所だった。
いきなり立ち上がった満を、全員が仕事の手を止めて、ぽかんと見ていた。
満は事務所の経理担当だ。
ここでもどこでも意図して地味に、目立たないように生きてきた。
短い黒髪に、顔を隠すための黒縁眼鏡。おとなしい言動で、誰の意見にも逆らわず、自分の意見も言わず……。
仕事も数年ごとに変えて職歴をごまかしごまかし生きてきた。
親しい友人を作らず、職場での人間関係も濃くはせずに、自分を律して生きてきた。
その満が、今立ち上がり不意にぽろりと泣いた。
「どうした……?」
経理部長が、伺うように席から声をかけてきた。
満はそちらを向く。涙が止まらなかった。
「いつまでもこの生活が続けられるとは思っていませんでした……けれど、彼女が死んでしまった」
姿の変わらない自分がいつ命尽きるのかも分からない。
もしかしたら死ねない体なのかもしれない。
けれど彼女さえ側にいれば……それで良かったのに。
「お前、一体どうしたんだ?」
部長が戸惑いつつ近寄ってくる。
他の職場の人間は誰も言葉も出ない様子だった。
「お世話になりました……失礼します」
満は一歩下がり、職場の全員へと向けて丁寧に頭を下げた。
親族でもない満は彼女の病院へも、葬儀へも駆けつけられない。
これから行く場所もない。
どこへも行けない。
もう彼女には会えない。優しいあの笑顔にもう会えない。
「おい!」
引き止める同僚たちの声も満には届かなかった。
心の中は空虚だった。
満はデスクや荷物はそのままに、会社を後にした。
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