1−2

 朝の出勤ラッシュ直前に、加那はいつも一人で電車に乗る。

 電車の中は座れるほどには空いていなくて、隣と肩が触れ合わない程度には空いている。

 昨夜は友達とラインをしていて寝そびれた。

 深刻な悩みだと言うから付き合ったのに、中身はただの恋の相談だった。

 好きな相手に好きな女子がいるらしい。

(ばかばかしい……)

 好きな相手がいて結婚して、子供まで設けたのにこちらは毎朝大戦争だ。

 まずは告ってみれば? と友達を煽っておいて寝た。

 20分ほど電車に揺られ、駅からはバスだったがまだ時間がある。

 加那はお決まりの、駅前のコーヒーチェーン店に入った。平日のみ、朝食のセットが380円で食べられるのだ。

 1階で会計し、2階へと上がる。

 いつもの席。

 窓際のカウンター席のど真ん中。まるで加那のためかのように毎日空いている。

 すっと加那はそこへ座った。

 朝食のセットが来る前に、化粧を終えたい。

 背中のリュックを下ろしてポーチを取り出し、リュックは足元へと押し入れる。ポーチには、白粉とマスカラ、色付きリップが入っている。加那にはチークもアイシャドーもいらない。

 さっと白粉を塗り、マスカラを入念に。リップはほんのり色づけるだけ。

 化粧はすぐに終わった。

 朝食のベーグルセットが届き、加那は高い椅子の上で足をブラブラとさせながら齧り付く。いつもと同じ席でいつもと同じ味。

 足元を大人たちが、子どもたちが、それぞれの目的地へと歩いていく。走っていく。

(くだらない)

 何を見てもそれしか思い浮かばなかった。

 けれど、お腹がくちくなればそれなりに気分は浮上する。

 昨日ラインを一方的に切った友達に、『昨夜は眠くてごめんね。応援するよ、頑張れ!』とラインする。 

 足元から数十メートル先にバスが来た。加那が乗るバスだ。人の入れ替えで、長い列ができている。

今から店を出ても十分間に合う。

 加那はリュックを背負って、店を出た。


 加那にだけは、その老女がよろけたのが分かった。

 誰もその老女を気にしていなかった。

 加那が乗ろうとしたバスの長く伸びた列の最後尾あたりだった。そこからはみ出すように不意に一人の老女が横へ逸れたのだ。

 その後ろの若者はこれ幸いと彼女を抜かしてバスに乗り込もうとする。若者のボストンバッグがさらに彼女の肩に当たり、どうっと老女は倒れ込んだ。

 周囲は無視だ。迷惑そうな視線を老女に向けるのみ。

 加那は言いようのない怒りを覚えた。

(どいつもこいつも、本当にくだらない)

「大丈夫ですか!?」

 声をかけて近づいた。

 キャッと叫んで固まるだけの女性や、ばつが悪そうな若者を押しのけて加那は老女の元へ急ぐ。

 たどり着き仰向かせると、老女は肩で息をするのも苦しそうで、胸を掴んでごくゆるく呼吸をしていた。

(もしかして、具合が……?)

「大丈夫ですか? 声が聞こえますか?」

 加那は彼女を極力揺らさないように声をかけた。

「貴女……」

 老女はうっすらと目を開けた。声が声になっていない。

 周囲もざわざわと騒ぎ出した。救急車だ、いやAEDだと声がする。

「はい」

 加那は、老女に呼ばれたような気がして、彼女の口元へと耳を寄せた。

「貴女……ごめんなさいね。あの子を、よろしく……」

 そう聞き取れた。

 『迷惑をかけてごめんなさい』だろうか。しかし、あの子とは?

 周囲に子供と思われる年齢の者はいない。

 そうしているうちにも、老女は意識を失ったようだった。

 救急車が駆けつけるまで、加那は声をかけ続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る