第3話 異世界
「坊ちゃま。ミルクの時間です」
俺はいつものように黒髪メイド少女のおっぱいに吸い付いた。
俺が赤ん坊に生まれ変わってから半年が過ぎている。
結論から言うと、俺は異世界に転生したことで間違いなさそうだ。
何故それが分かったかというと、赤ん坊である俺の周りで交わされる会話を分析した結果、そうとしか思えなかったからだ。
必死になってあの黒髪メイド少女が語り掛けてくれる言葉に耳を傾けた結果、俺は既にこの世界の言葉をある程度理解出来るようになっている。
生まれてからたった半年で言語を習得した。
まだ舌の筋力などが発達していないので喋ることこそ出来ないが、そもそも0歳で喋ることは異常なことだろうからやるつもりはない。
そして言葉が分かるようになってしばらく、色々ととんでもないことが判明した。
まずこの世界が大きく魔術の技術が発展した異世界であること。
魔術があることだけでも驚きなのだが、この世界の生活水準が中世ヨーロッパ程であるにもかかわらず、水道らしきものや果ては空中庭園のようなものさえあった。それらは全て魔法技術によるものだ。
加えてこの高水準の魔法技術の世界では、何よりも魔術師が優遇される。酷いところでは「魔術師でない者は人間にあらず」とまでのたまう者がいるほどらしい。
そして――ここが一番重要なのだが――俺には生まれつき魔力が無かった。
この世界の住人には多かれ少なかれ魔力が存在しているはずなのだが、何故か俺にだけ一切魔力がないのだという。
これは割とショックだった。せっかく魔術のある世界に転生したのだから魔術を使ってみたかったし、これではまた底辺になってしまうから。
でもショックは一瞬だった。せっかく生まれ変わったのだ。俺はもう二度と言い訳をして現実から目を背けることはしないと決めていた。
魔力ゼロ? だから何? 努力をすれば魔力を増やせるかもしれないし、最悪他にも剣士などの道もあるだろう。
幸い俺の立場は貴族。
エイビー・ベル・スカイフィールド。それが今の俺の名前であり、スカイフィールド伯爵家の嫡男という立場だ。
ただ――スカイフィールド家の現当主は俺の本当の父親ではない。
スカイフィールド家現当主のクウラ・ベル・スカイフィールド伯爵は俺の叔父に当たる人物だ。
つまり俺は現当主の甥というわけである。
どうしてそんなややこしい立場なのかということや、俺の両親がどうなったかということはまだ分からない。避けられているのか、そういった会話は俺の近くでは交わされなかった。
「可哀想な坊ちゃま」
これが黒髪メイド少女の口癖だった。
魔力が無い上に当主の甥という微妙な立場の俺のことを慮ってのセリフ。
もし叔父のクウラに子供が出来たら、魔力が無い上に直系の子ではない俺のことなど簡単に廃嫡することだろう。それくらいは俺にも理解出来た。
ちなみに今も自分のおっぱいを分け与えてくれている彼女の名前はオキクという。
ただ、その名前を聞いた時、俺は内心で首を傾げるしかなかった。
オキク? まさか「お菊」か? そう思った。
なにせ彼女の顔立ちは日本人のそれだ。しかも現代の日本でもめったに見られないほどの純和風大和撫子の超美少女なのである。
まあ、俺はまだ喋れないのでその辺りを詳しく訊くことは出来なかったが。
ただ、彼女に関してはそれ以上に驚くべき秘密があった。
オキクはうっすらと薄い笑みを浮かべる。それはゾッとするほど冷たい笑みだった。
そして、その冷たい微笑を浮かべたまま俺に言ってくる。
「でも安心して下さい。わたしがいつかクウラ伯爵を殺してあなたを当主に据えてみせますから」
簡単に「現当主を殺す」と言う彼女――オキクの正体は実は暗殺者だった。
どうやら彼女はスカイフィールド現当主であるクウラを殺すためにどこからか派遣された暗殺者らしく、ことあるごとにクウラの命を狙っていた。
まさか赤ん坊の俺が言葉を理解しているとは思っていないのだろう、よく今のようなセリフを俺に向かって言ってくる。
どうやら彼女は俺をあやす感覚で言っているらしいが、暗殺者の感性は一体どうなっているのだろうか? 本物の赤ん坊だったら真っ先に覚える言葉が「殺す」だったとしてもおかしくない頻度で言われているんだけど……。どうなのそれ?
そんなわけで俺は転生直後から割と面白い状況に置かれているというわけだ。
ただ、自分のお付きのメイドが自分の叔父を殺そうとしている状況は少し困るといえば困る。
と言っても俺は命を狙われている叔父よりもむしろオキクの方を心配していた。
実は叔父はこの世界にその名を知らぬ者はいないほどの天才魔術師だ。
スカイフィールド伯爵家は代々【風魔法】が得意な名家なのだが、中でも現当主のクウラ・ベル・スカイフィールドは歴代最強と呼び声高く、【風神】の二つ名を得ているほど。
しかも彼は単なる魔術師ではないようで、俺から見てもその立ち振る舞いに一切の隙は見えない。
そんなわけで暗殺者のオキクは未だ叔父のクウラを殺すタイミングを見極められないでいる。
どうやらオキクは慎重派なようで、相手が絶対の隙を晒すまで下手に動かないタイプらしい。
クウラの背中を見つめるその鋭すぎる視線は暗殺者のそれだが、少なくとも彼の前では従順なメイドの一人を演じきっている。
取りあえず――オキクを止めるにしろ加勢するにしろ、まずは俺自身が成長しないとどうにもならない。とっとと大きくなりたいところだ。
そんなことを考えていると、件の叔父――クウラ・ベル・スカイフィールド伯爵が俺の部屋に入って来た。
「これはクウラ様」
オキクが恭しく頭を下げる。
俺はオキクの腕の中でクウラの方に向き直る。
その男はとても冷たい印象を受けた。
黒い長髪をオールバックにしており、死神のように白い顔がよく見える。
冷え切った瞳と切れ長の目。
長身でダークグリーンの鎧を着用しており、背中には黒いマントが垂れていた。
彼は一切の笑みを浮かべず、無表情のまま冷たい目で俺のことを見下ろしてくる。
そして低い声で喋った。
「ふんっ。相変わらず微塵も魔力を感じんな」
まるで吐き捨てるようにして放たれたそのセリフ。
もちろんそれは俺に対して述べられたものだ。
「僭越ながらお館様……坊ちゃまはまだ赤子です」
「真に魔術の資質のある者ならば、生まれた時からそれを感じさせるものだ」
「しかし……」
それでも俺のために口を開こうとしたオキクに、クウラはギロリと睨み付ける。
「一介のメイドに何が分かる?」
「……失礼いたしました」
オキクは再び恭しく頭を下げる。
しばらく静寂が支配した。
ややあってからクウラがぼそりと呟く。
「やはりこれは対策を打っておいた方がよさそうだな」
……それは一体何の対策だろうか?
いずれにせよ俺にとって不利な対策に違いない。
何せこのクウラは俺のことを毛嫌いしているのだ。
代々優れた魔術師の家系であるこの名家スカイフィールドの家に生まれながらにして魔力ゼロの俺のことを。
「せいぜい村人が扱える魔術くらいモノに出来るようにしてさせておくのだな」
「……はっ」
自分の甥に吐いたとは思えないほどの冷たいセリフに対してオキクはただ頷く。
そして、そのままクウラは踵を返し部屋を出て行こうとする。
ただ……俺はゾッとした。クウラの背中を追いかけるオキクの目が殺気に満ちていたからだ。
しかし隙が見つからなかったのかオキクは最後まで動かなかった。
クウラが出て行った後も部屋の入口を睨み付けたまま彼女は吐き捨てる。
「いずれ絶対に殺してやる」
こ、怖い……。
赤ん坊の本能なのか、恐怖した俺は自分の意思とは関係なくぐずり出す。
そして泣き出してしまった。
するとオキクは焦ったように俺の体を揺らし始める。
「坊ちゃま、申し訳ありません。怖がらせてしまいましたね」
俺を見下ろしてくるその瞳は既に優しかった。
本当の肉親であるクウラよりもよっぽど温かかった。
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