第3話 夏休み(三)
「前田さんの奥さんって少し図々しいところがあるのよね。前からクセモノじゃないかって思っていたの」と、真一の母は膝の上のナプキンで口を押さえながら語った。
「そうなの? もう、藤原さんたら、そういうことは早く言っていただけないと……」
「あら、ごめんなさい」
そのレストランは、食器が触れ合う、品のある音が響きわたり、至るところに生に満ちた観葉植物が置かれてあった。丸いテーブルには店の心配りがうかがえる、一輪の小さな花が生けられている。
真一の母親とママ友数人の女性がテーブルを囲んでいた。
携帯電話が鳴った。真一の母親が手に取ると、呼び出し音は止まった。
「あら、バッテリーが無くなっている。そういえば、今朝、真一に電話した後、充電するのを忘れていたわ」
「息子さん、ニューヨークにいるんですって?」とママ友の一人がたずねた。
「ええ」
「よく一人で行かせましたね」
「仕方ないわよ。お父様と夫からの命令ですもの」
「心配じゃあ、ありません」
「心配よ。だから、もし真一に何かあったら、すぐにニューヨークに行けるように準備はしてあるの」
「もし、息子さんじゃなくて旦那さんだったら、どうします?」
「そうね……」と真一の母親は考え込んだ。
「まあ、ひどい!」
ママ友たちは大声で笑った。
テラスから差し込む夏の日差しが心地よく、ここの料理は少し値段がはるが、おいしいので評判だった。
ママへの電話はつながらなかった。
「しかたがない。パパだ。パパに電話してみよう。怒られるかもしれない。でも、今はそんなことを言ってられない」
真一はディスプレイに表示された『パパ』を選んだ。
あるホテルの一室。
ベッドには褐色の肌の女性が横になっていた。長い栗色の髪に、神秘的な顔立。魅惑的な肢体にはシーツがかけられてあった。
シャワーの音が壁をとおして聞こえてくる。
その音が止むと、鍛え抜かれた体にバスローブを羽織る、四十過ぎの日本人男性が現れた。黒い髪は艶っぽく濡れたままで、精悍な顔にはわずかな冷たさを携えていた。
それが真一の父親、
女は目を覚まし、真行を見ては子供のように微笑んだ。
壁には、黒いスーツがかけられてあった。その内ポケットでは携帯電話が点滅し、振動していた。ただ残念なことに呼び出し音は鳴らなかった。
パパにもつながらない。
ゆっくりとした、マンモスの重厚な足音が近づいてくる。
真一の体がこわばった。
「頼む。こっちにこないでくれ!」
祈りが通じたのか、マンモスは足を止めると、遠ざかり始めた。
「助かった……」
と、思うのもつかの間、携帯電話が鳴った。
真一が手に取ると画面に『パパ』と表示されている。携帯電話を持つようになってから、初めての父親からの電話だった。
――でも、よりによってこんな時に……――
マンモスの足音が地響きとともに近づいてくる。足音は次第に速くなり、近くで止まった。雄叫びが聞こえたかと思うと真一達が隠れていた石像が払いのけられた。石像が倒れ、轟音とともに床が揺れた。
マンモスと目が合う。それでも携帯電話が鳴り続いている。真一は、そっと電話に出た。
「もしもし」
「真一か?」
「パパ……」
マンモスの鼻が真一に伸びてくる。
「どうした? 何か用か?」
「……」
マンモスの鼻が真一のいたる所の匂いを嗅ぐ。
「早く言いなさい。忙しいんだから」
「……あの……ごめんなさい」
「何がだ?」
「仏像が壊れた」
「壊れたって? どのぐらいだ?」
「跡形もなく……」
「そうか……それで?」
「マンモスが……」
「マンモス?」
「そう、マンモスがボクを殺そうとしている」
「何を言っているのか、よくわからん……。落ち着いて、わかるように言いなさい!」
父親の声は苛立っていた。
「だから、マンモスが……」
異臭のする生温かい息がかけられ、真一は震えた。
「もういい。高校生にもなって……」
父親に電話するんじゃなかった、と真一は悔やんだ。
「真一。いいか? よく聞くんだぞ。おじいちゃんにもらった五鈷杵があるんだろ?」
「うん」
「その中に護符があるはずだから、それを使って式神を呼ぶんだ。呼び方はわかるだろ?」
「無理……」
「無理なことはない。『小使鬼』と同じだ」
「そうじゃなくて……」
この状況で式神なんて呼び出すなんてできっこない。どうすれば、この状況をわかってもらえるだろうか、と真一が悩んでいると、
「おじいちゃんの式神を呼べばなんとかなるだろ。じゃあ、頑張れ」と、父親は一方的に電話を切った。
「パパ……」
携帯電話からは不通音が流れる。
マンモスは雄叫びを上げ、右前足を高く上げた。真一の頭の上に像の足底が見える。
――齢十五年。短い人生だった――
アンジェリーナがこっそりと逃げようとしているのが、真一の視界の隅に見えた。
だが、気づいたのは真一だけではない。マンモスも逃げようとする彼女に気づき、鼻で彼女を殴り飛ばした。アンジェリーナの体が壁に強く打ちつけられる。
そのすきに真一は駆けだした。
――逃げ切るんだ。何がなんでも逃げ切るんだ。まだ十五年しか生きていない。ボクにはまだやり残したことがあるんだ!――
背後でマンモスの雄叫びが聞こえる。
真一は懸命に走る。だが、仏像のあったブースの手前で立ち止まった。まだ放電する水が床を覆っていて、先へは進めなかった。
マンモスが近づいてくる。まるで猫がネズミをいたぶるかのようにゆっくりと、ゆっくりと、鼻を左右に振りながら。
マンモスの後方からまばゆいばかりの光が発せられた。
光は次第に上っていく。光の正体はアンジェリーナだった。
光あふれる彼女は両手を拡げながら宙に浮いている。しかも彼女の眼には、あの碧い瞳が見えない。白い眼がマンモスを見下ろしていた。
マンモスも気付いたのか、雄叫びを上げ、彼女をにらんだ。再びマンモスが鼻を高く掲げて吠える。それに呼応してアンジェリーナも口を大きく開き、白い眼をむいては猛り立つ。
彼女は流れるような動きで両手を高く上げた。マンモスに微笑み、何かを口ずさむと両手を素早く引き下ろす。
マンモスの周囲の床が円く窪んだ。過度な重力がマンモスを押しつぶそうとしている。マンモスは苦しみ、体が震えている。雄叫びを上げようにも鼻さえも持ち上がらない。
まるで3Dゲームのバトルのようだった。
マンモスが重力に耐えかねたのか、前足の膝を曲げた。
アンジェリーナは笑った。下げていた右腕を上げると何かを叫び、再び下ろす。下ろすと同時に稲光がマンモスに落ちた。
苦しむマンモス。HP(ヒットポイント)が削られていく。
まさにHPゲージの最後のポイントが点滅し消えかけた時、残念なことにマンモスは耐えた。地についた前足の膝をゆっくりと伸ばし、すべての重圧を払いのけるように雄叫びを上げた。
その威圧にアンジェリーナの攻撃が吹き飛んだ。彼女は再び攻撃を加えようとしたが、すでにマンモスは突進してきている、彼女に体当たりを食らわし、しかも彼女の体を後方の壁とで圧搾した。
アンジェリーナが大量の血を吐いた。
マンモスがゆっくりとアンジェリーナから離れる。壁にめり込んでいた彼女は剥がれるようにして地面に落ちた。
マンモスが真一に振り向く。
真一はあわてて片手に握りしめていた五鈷杵を調べた。父親のいうような護符なんてものは見つからない。それでも懸命に探した。杵をねじった。折ろうともした。地面に叩いてもみたが、それでも護符は見つからない。
マンモスが近づいてくる。
「なぜ、ボクを追いまわすんだ? 一介の高校生を追いまわすより他にすることがあるだろ? たとえば……、そう、世界征服とか、……覇王になるとか」
マンモスの歩みが次第に速くなる。マンモスに言葉は通じない。
――もう、ダメだ! パパのいうような護符なんてないよ――
そのとき、ふと浮かんだ。
――そうだ。五鈷杵に護符が隠されてあるのなら、五鈷杵ごと印を切れば……――
真一は慌てて五鈷杵に印を結んだ。すると五鈷杵が放電しはじめる。驚いて真一は五鈷杵を手から放した。
床に落ちた五鈷杵は小刻みに揺れている。五鈷杵の隙間から紙片が顔を出した。外に出ようともがいている。ようやく五鈷杵から出られた人型の紙片は発火し、爆発した。
煙の中から背丈五十センチほどの少女が現れた。
黒髪を先端から分けては、耳元から胸のあたりの髪を三つ編みにしている。青いドレスの上には、かわいらしい白い小さなエプロンを身につけ、平がったスカートの中から何層もの白いフリルが見え隠れする。白いハイソックス、大きなリボンのついたピンク色の靴をはいていた。
少女はスカートの先をつまみ上げ、頭をたれてはおじぎをした。顔は見えないが、
――かわいい! まるで造型師、M・賀川の造形(つく)るフィギュアようだ――
と真一は感動した
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