第2話 夏休み(二)

 全身を駆け抜ける痛みで女は目を覚ました。意識はぼんやりとしていたが、次第に記憶がよみがえってくる。


 仏像を盗みに博物館に侵入し、お目当ての仏像を見つけた。男達が仏像の入ったガラスケースを割ろうとハンマーで殴ったがガラスは割れなかった。何でもたたいているうちに、ようやくひびがはいると、ガラスは爆発して砕け散った。その風圧で女は吹き飛ばされたのだった。


 彼女の名前はアンジェリーナ。物心がついたときには東ヨーロッパのある国の孤児院にいた。孤児院を抜けだした彼女は、東ヨーロッパを転々とし、西ヨーロッパを抜け、ここニューヨークにやってきた。


 四十二丁目のある一角を彼女は『仕事場』としている。顔も知らない親からもらった肢体を、名前の知らない男性に提供し、生活の糧にしていた。

 彼女はニューヨークへの道のりも、またニューヨークでも危険を避け、細心の注意を怠らなかった。ほんのわずかな気の緩みも命取りになる。そう自分を戒めてきた。そうでなければ、今まで生きてこれなかった。ところが、慎重に生きてきたはずなのにトラブルに巻き込まれてしまった。想像もつかない大きな力――彼女がそう感じたのだが――が彼女をこの仏像の盗みへと否応なく強いたのである。


 そんな彼女が、ガキを殺そうとしたウェルバー――アンジェリーナの『仕事場』のエリアを担当する刑事で、いわゆる『ダニ』である――を制止したのだ。。それは彼女にとって衝動的なことだった。自分でもなぜそうしたのか分からない。いつもなら傍観者に徹したはずなのに。しかし、今回は違った。このガキを殺してはいけないと激しく警鐘が鳴り、無意識でガキを救った。


 銃声が聞こえる。

 見ると銃を持ったウェルバーが、台に隠れた男の子に近づいていく。


――あのガキだ――


 アンジェリーナは全身を襲う痛みをこらえて立ち上がった。落ちていたハンマーを手に取り、ハンマーと体をを引きずりながら、ウェルバーに近づいた。ハンマーを振りあげたときに、ウェルバーに気づかれてしまい、肩を撃たれた。振り下ろしたハンマーはウェルバーの目の前をかすめ、床をたたきつけた。


――しまった――


 まるで肩から腕をもぎ取られたような痛みに苦しみながら、ウェルバーを睨んだ。


「売女め! 俺の邪魔をするな!」


 ウェルバーが銃を彼女の額に向けた。


――終わった――


 そう思った時だった。ウェルバーの肩越しに天井から垂れた電線が見えた。不思議だったのがその電線を伝って『こびと』が上っていく。

 彼女の視線がウェルバー自身に向けられていないことに気づいたのか、彼がおそるおそる後ろを振り返った。すると電線に上っていた『こびと』がウェルバーに気づき、ぎこちなく笑った。


「何なんだ! これは」


 ウェルバーは『こびと』を撃った。

『こびと』の体躯と体液が飛び散った。

アンジェリーナはその隙に走り出し、真一のいる台座の陰に隠れた。台座越しにウェルバーを見ると、彼は天井に向かって銃を撃っている。

 天井には消火用のパイプが張り巡らされていた。最初に電線を上ったこびとが消火用の栓を懸命に緩めようとするが動かないみたいだ。次々とパイプにたどり着いた『こびと』達が栓を緩めるのに手をかしている。ようやく栓が動くと、栓の下のところから、水が噴き出した。

 落ちてくる水の勢いで顔を覆ったウェルバーに向かって『こびと』達が飛び降りた。『こびと』達はウェルバーにしがみつき、ひっかいたり、かみついたりしている。

 アンジェリーナは真一の腕を引っ張った。


「今のうちに逃げるのよ」


言葉が分からないのか、きょとんとしている真一を見て、


――私は何をしているんだ?――


 間の抜けた顔のガキをなぜ助けようとしているのか分からない。彼女の人生の中で最も意味のないことをしているとわかっている。わかっているのだが、それよりも心のもっと奥で、このガキを救うんだという衝動、使命感が上回ってしまう。 


――ああ、もうわからない――


 アンジェリーナは真一の腕を引っ張って走り出したが、大きな巨体が彼女を遮った。仏像のガラスケースを割った男だった。

 彼女は巨体の男に微笑んで、優しく男の股ぐらを撫でた。


「お願い、見逃してくれない。そうすれば今度会ったとき、いいことをしてあげる」


恍惚の表情を浮かべる男だったが、急に顔色を変えた。それと同時にアンジェリーナの後頭部に堅いものがあたった。


「ゆっくり振り向くんだ」


ウェルバーの声だった。

アンジェリーナはゆっくりと振り返った。

ウェルバーの髪は乱れ、顔中、傷だらけだった。服は『こびと』の体液で汚れていた。

とっさにガキを自分の背に隠すように引いたが、ウェルバーが銃を持っていない手でガキの髪をつかんで引き寄せた。彼は微笑むとガキの顔を殴りつけ、ガキはふっ飛ばされた。


 殴られることになれていた真一は倒れたまま、じっとしていた。


――動いてはいけない。ただじっとしていること。もし、動けばさらに痛い目に遭う――


それが十五年間の経験で体にしみついた防衛本能だった。

 気絶した振りをして、女と銃を持った男を見た。

 男は左手に持った銃を彼女の顎に突きつけ、右手で彼女の胸を鷲づかみにした。

 女はが男の顔に唾を吐いた。

 男は微笑み、銃で彼女を殴り倒した。彼は手で唾をぬぐい、床に倒れた彼女に銃を向けた。

 真一は目の前まで水が迫っているのに気づいた。『小使鬼』が開いたパイプの水がまだ天井から降りそそいでいたのだ。その上、水は電気を帯びている。天井から垂れたケーブルの先が床の水に触れ火花が散っている。

 電気を浴びた水は次第にその領土を広げ、とうとう迦楼(かる)羅天(らてん)像の土台に触れると、火花が炎に変わり、土台は崩壊した。その爆発に周囲のものは吹き飛ばされた。

 銃を持った男が遠くの壁まで飛ばされた。

 爆発は一回では収まらない。次々と周りの仏像に連鎖し、仏像を木っ端みじんにした。

倒れたままだった真一は爆発には巻き込まれなかったが、あたりは霧が立ち込め、灰が降りそそいでいる。いたるところに火花が散っていた。


 真一の脳裏に、小さな頃からのダメな自分が走馬燈のように浮かんでは消える。子供の頃から何事にも中途半端でうまくいったためしなどなかった。学芸会。遠足。運動会。受験。初恋……

 楽しいはずの夏休みを犠牲にしてニューヨークまでやってきた。それは日本から運んだ仏像を守るためだった。それが今、無駄になってしまった。


――ボクはダメな人間なんだ――


 霧が晴れると迦楼(かる)羅天(らてん)像が見えた。不思議なことに台座もないのに床の上に浮いている。仏像は次第に揺れはじめる、急に揺れがとまったかと思うと、仏像から光が洩れた。光は輝きを増し続け、頂点に達すると仏像は爆発した。そこからあらわれた一本の光の矢が会場内を飛び回り、どこかへと去っていった

 壁際に倒れていた人影が動いた。銃を持った男だった。彼は生きていたのだ。頭を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。


「Freeze!」


 入り口から装備された大勢のポリスたちがなだれ込んできた。

 男は銃を床におき、彼は両手を上げて叫んだ。

「私は風俗課のウェルバー警視だ!」

 しかし、ポリス達の緊張は解けない。男に銃を向けたまま、ゆっくりと近づいてくる。


「パァオ――ーン!」


 遠くから獣の雄叫びが聞こえた。

 ポリス達の緊張が恐怖に変わる。その聞きなれない雄叫びに不安がり、辺りを警戒する。

 地を揺らす足音が近づいてくる。足音は次第に速く激しくなり建物を振動させた。

 足音の主は壁をぶち破り、その姿を現した。

 マンモスだった。何万年前かに絶滅したはずの生物は、鼻先とその長い牙を天井高く掲げては、大気を激しく揺らす雄叫びを上げた。その瞳は不気味なほど紅く輝き、視線は辺りに殺気をばらまいていた。

 ポリスの一人が恐怖に声を上げ、銃の引き金を引いた。

 それでマンモスの標的が決まった。マンモスはポリス達の方へと駆け出した。地響きがし、館内はマンモスの雄叫びで満ちる。

 ポリス達も応戦した。大量の銃弾がマンモスに命中する。それでもマンモスはとまらない。ポリス達を、その強力な鼻で蹴散らし、重量のある足で踏みつけた。


 真一は、目の前の惨劇をまるで遠くのできごとのようにながめていた。


――荷物をまとめて、日本に帰ろう。家に着いたら、自分のベッドのタオルケットにくるまって眠るんだ。おじいちゃんはがっかりするだろうな。パパはきっと怒るかもしれない。まあ、いいさ。できないことを頼んだおじいちゃんとパパが悪いんだから……――


 急に腕を引っぱり上げられた。振り向くと碧い目の女だった。


「早く逃げるのよ!」


 何を言っているかわからない真一だったが、彼女が怒っているはわかる。


――わかってますよ。すべてボクが悪いんです。ボクはダメな人間なんです――


 彼女に立たされて、真一は引きづられるようについていく。

 たどり着いたのは絶滅動物の部屋だった。中央にいたマンモスの剥製が無くなっている。今は展示台の上に、小さな説明板だけが残っていた。


――まさか、さっきのマンモスが……。吹き飛んだ仏像と何か関係があるのだろうか? でもそれはボクのせいじゃない。ボクに陰陽師の仕事をさせたおじいちゃんとパパが悪いんだ。そう、ボクは何も悪くない。だってボクは言われた通りにしたし、頑張ったんだから――


 傍では狼の剥製が牙を向けてにらんでいる。まるで取り残されたことを怒っているように。

 さらに奥へと進む。奥といっても正確には正面玄関に向かっていた。

 次の部屋はブースではなく、エントランスだった。壁際には数メートルにもおよぶ中東系の石像が並んで、観客たちを出迎えている。


――でかいなあ。こんなものもあったんだ――


と女にに手を引かれながら真一はのんびりと石像を見上げた。

 女の手が放れた。真一が振り向くと、彼女が駆けていくのが見える。その方向に大きな扉があった。


――あ! 出口だ。外に出られる――


 真一はぎこちなく微笑んだ。男に殴られた頬の痛みがまだとれていなかった。

 女は扉にたどり着くと、扉の傍らの暗証番号を入力する装置のキーを入力し、扉が開くのを待った。が、扉は開かない。再度、入力するが、やはり扉は開かない。苛立って、何度もを試みるも扉は動かなかった。

 単発ずつの力ない銃声が近づいてくる。振り返るとウェルバーが銃を撃ちながら後ずさりしてくるのが見えた。顔は青白く、恐怖に引きつっている。

 彼を追って、マンモスがあらわれた。


――ああ、もうやってきた……――


 そんな呆然としているとアンジェリーナに腕を引っぱられ、石像の陰に隠れた。真一はできるだけ体を小さくし、息を殺した。

 ウェルバーの銃の弾が切れた。彼はその銃をマンモスに投げつける。

 マンモスは鼻で銃を払うと、その長い鼻をウェルバーに絡ませ、持ち上げた。ウェルバーは叫び声を上げ抵抗するも、ムダだった。マンモスは彼を頭から飲み込んだ。

 飲み終えると次の獲物を探し始めた。辺りを見渡し、ゆっくりと、しかもしつこく探している。まるで何かの気配を感じているかのようだった。

 見つかるのも時間の問題だろうと、真一はあきらめていた。

 なぜか三崎愛理の笑顔が浮かんだ。教室で友達と楽しそうに話をしている。

 そんな彼女を真一は遠くからながめていた。一度でいいから、彼女のかわいい微笑みと甘い声を自分に向けてくれないかと身の程をわきまえない夢を持っていた。


――十五年の人生で一度も、いいことがなかった――


 彼女の笑顔が次第に真一の頭の中を占有していく。


――死にたくない。彼女に会いたい! 彼女に会って……――


 妄想が真一を動かす。

 彼はリュックから携帯電話を取り出した。アンジェリーナがあわてて止めようとするが、彼女を振りきり、アドレス帳から『おじいちゃん』と表示された項目を選択した。

 やはりファックスに転送され、つながらない。

「じゃあ、パパだ!」、でも、なるべく父親とは話したくなかった。

 元々、父親とは年に数回しか会っていない。会ったとしてもあまり会話はなかった。印象に残っている記憶といえば、幼い頃、家の裏庭にあった小さな祠を壊して、ひどく叱られたぐらいだった。


「そうだ。ママに電話しよう。ママの方からパパに伝えてもらえばいい」


 真一は携帯の電話帳から『ママ』を探した。

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