陰陽師家にさえ生まれてこなければ

@lacol

第1話 夏休み(一)

――夜の博物館が氷に閉じ込められているみたいに寒いなんて、まさかニューヨークで知ることになるとは思ってもみなかった――


 藤原真一は一人、すべての仏像の結界を張りなおし、祖父からもらった五鈷<<ごこ>>杵<<しょ>>を大事に握りしめては、迷子になった幼児のように館内の隅で膝を抱えて座っていた。


――早く日本に帰りたい――


 ガラスケースの中の迦楼かる羅天らてん像がにらんでいる。


――にらむんじゃない! お前のせいでボクの夏休みを奪われたんだぞ。

 ボクの夏休みを返してくれ!――


 どうして、こうなったのか……。

 あまり知られていないことだが、仏像の中には邪気や怨念、ときには悪霊、妖怪などが閉じ込められていることがある。その仏像がお寺や神社から運び出されるとき、万が一のために陰陽師が見張り役として同行し、運び先で結界を張らなければならない。

 というのは建前で、そんな危ない仏像は門外不出のはずで、陰陽師の見張り役も協会の運営費のため、いわゆる大人の事情なのである。

 残念なことに真一の家系は陰陽師の流れを汲んでいた。といっても末席の陰陽師家であり、見張り役などの大役を仰せられることなどまずありえない。依頼される仕事といえば、祭祀のときに人数合わせで呼ばれるぐらいだった。

 ところが近頃の仏像ブームで陰陽師の数が足りなくなった。ほとんどの陰陽師は出払ってしまい、とうとう藤原家にお鉢が回ってきたのだ。

 はじめは真一の祖父――京都の片田舎でお寺の住職をしている――に依頼がきた。ところが祖父は陰陽の依頼を断ったのだ。大事な檀家の法要があるという理由で。

 祖父は息子つまり真一の父親に依頼を持ちかけた。父親は仕事――ある外資系企業の重役に就いている――で忙しい。真一でさえ年に数日しか会えないのだから、陰陽師の仕事なんか無理に決まっている。

 とはいうものの陰陽師の家系である藤原家としては宗家の命を無下に断ることはできない。そこで真一の名前があがった。ちょうど夏休みの真一は、祖父や父親にとって都合がよかった。


――ボクにだって夏休みの計画はあったんだ――


 真一は去年、高校入試で遊べなかった分、今年の夏休みは友達といろいろ計画を立てていた。

 毎年夏休み恒例のイベント、ビッグサイトのコミケ。

 関西への聖地巡礼――中でも「○宮ハ○ヒ」の○宮北高校や「○い○ん!」で有名な滋賀の○郷小学校跡地は特に楽しみにしていた。


 しかし、それら以上のビッグイベントがあった。八月十日に行くはずだったウィスティンホテルのプール。

 真一にとってホテルのプールほど似つかわしくない場所はない。市民プールのほうが似合っていることはわかっている。それでも行きたい。なぜなら、その日、クラスの三崎愛理が仲のよい女友達といっしょに遊びにいくという情報を偶然キャッチしたからだ。


 三崎愛理。彼女を初めて見たとき、真一の心は一瞬にして奪われてしまった。彼女はまるで造型師のM・麻井が創るフィギュアのようにピュアな表情と可憐な容姿を持ち合わせていた。真一にとって彼女の『殺傷能力』はまさに『テラ級』だった。

 夏休みに彼女と会える。それも水着姿の三崎愛理に。

 学校ではまったく相手にされていない真一だが、もしかしたら、その日に……。


 誰もが解放感にあふれる高校最初の夏休みを、真一は見知らぬ海外の博物館で過ごすことになった。

 警備員しかいない閉館後の博物館にやってきては、結界を張り直し、しばらく様子を見て問題ないことを確認してからホテルに帰る。そんな毎日を繰り返さなければならない。

 しかもだ。実は今まで結界なんて張ったことはなかった。アメリカへ渡る数日前に祖父が結界の張り方を書いたメモと法具の五鈷杵を渡し、

「真一ならきっとできるよ」と言って、さっさと京都の寺に帰ってしまった。


――祖父はいい加減な陰陽師だ。それにボクは孫なんだぞ。祖父が孫を可愛がるのは社会の最低限のルールのはずだ。それがボクのおじいちゃんは、孫の夏休みを奪い、孫を見知らぬ土地に一人で行かせる。そんなのありえない――


 総括すると真一はこの夏、全国高校生不幸ランキングの上位に名を連ねてしまった。それもこれも不幸な家庭――陰陽師家――に生まれたせいなのだ

 でも真一はくじけなかった。真一はどんなに不幸な目にあわされようが、すべてを健気に受け入れる性格だったのだ。


「ホテルマデ・オクロウカ?」


 真一は肩を叩かれて顔を上げた。目の前にはボビーが立っていた。ボビーはインコのようなつぶらな瞳にタラコのような唇をしている。顔はつぶ餡みたいで、腹はでっかいハンバーガーのようだった。ボビーはこの博物館の警備員であり、真一の世話係だ。

 ボビーは昔、海兵隊として沖縄に駐留していたこともあり、日本語をほんのわずかだが知っていた。それで真一の世話係りになったのだ。

 因みに真一は英語が苦手で、特にリスニングは中学一年のレベルだった。


――ボビーは見知らぬ町で孤独なボクに優しくしてくれる。

 座り込んでいるボクの腕を持ち上げ立たせてくれるし、ボクのお尻を払い、撫でてくれるんだ。

 撫でてくれる?

 そうボビーはお尻を撫でてくれる。まあ、深く考えるのはよそう――


「ダイジョウブ・カ?」


 いつもボビーはそうたずねる。

 真一の眼が涙で充血しているからだろう。真一は黙ってうなずき、泣いていたのをごまかすように、わざと眠たそうに欠伸をした。


 博物館には仏像のブースの他に絶滅種のブースもあった。そこにはマンモスやサーベルタイガー、地上最大の狼だったダイアウルフなど、今や地球上には存在しない生物の剥製が所狭しと陳列されている。閉館後は、そこを通らなければ博物館を出ることはできない。

 剥製のブースを横切ろうとすると魂のない獣たちが真一をにらみつけた。ガラス玉であるはずの瞳に殺気を漂わせ、まるで動けないことに苛立っているかのように。

 真一はボビーの大きな体に隠れるように後を歩いた。


 ボビーが立ち止まった。次の瞬間、真一の視野が真っ赤に染まり、目の前のボビーの体が崩れるように倒れた。見知らぬ男が、倒れたボビーに何発もの銃弾を撃ち込み、最後にボビーの腹部を蹴り上げた。ボビーは動かなかった。

 男はゆっくりと銃口を真一に向けた。

 乾いた銃声が鳴り響いた。

 真一は意識が遠のく中、ボビーを撃った男と、体に密着した黒革のつなぎを着た女が揉み合っているのが見えた。女の目は深い碧色をしていた。


 真夏の日差しは、ライト・ブルーの澄んだプールの水面に反射し、ホテルの白壁に小波を映し出している。黄色い声はホテル中に響き渡り、色とりどりの水着と小麦色の肌はプールを華やかに彩っていた。その中でも、友達と戯れる白いビキニ姿の三崎愛理は飛び抜けて輝いていた。

 一方、真一とその友達はブールサイドの片隅で不良に絡まれている。頬を殴られ、差し出した財布からはすべてのお札を抜かれた。空になった財布はプールに投げ捨てられた。

 どす黒い雲がどこからかあらわれると、太陽を覆った。多くの雷が鳴り、その一つがホテルのプールに落ちた。


 真一は衝撃で吹き飛ばされた後、背中を壁に打ち付けられた激痛で夢から覚めた。

 痛みをこらえ、あたりを見渡すと博物館にいた。

 壁はいたるところ破壊されていた。天井からはケーブルが垂れていて、火花をあげながら床すれすれのところで揺れていた。床には何人もの男が倒れている。ガラスケースの中に陳列されていたはずの仏像達はガラスケースがなくなり、むき出しで立っている。 

 気づけば、迦楼羅天の立っていた台の周りに張ってあった護符が今にも剥がれそうだった。


――まずい。結界が破れる――


 真一はゆっくりと立ち上がり、迦楼羅天に向かって体をひきずるように歩き出した。

 目の前に女が倒れていた。ボビーを撃った男ともめていた碧い目をした女だった。気を失っている。真一は女をまたぎ、迦楼羅天像に進んだ。

 真一は土台のまえに座り込むと剥がれかけた護符を押さえた。


「痛っ!」


 護符に触れた途端、指に激しい痛みが走った。まるで護符が真一を拒絶するかのようだった。


 真一は携帯電話を取り出し、祖父の番号にかけた。

 呼び出し音が続く。つながらない。ファックスに転送された。

 留守番電話になっていないのだ。こんな大事なときに祖父と連絡がつかなかった。


――どうしよう?――


 火花が激しくなっていく。結界の中心にある仏像がかすかに揺れ始めた。


――結界が破れる――


 別の護符を取り出し、剥がれそうな護符を押さえようとするがはじかれる。

 真一は五鈷ごこしょを取り出した。手に持っていた護符を五鈷杵に刺し、放電する護符に突き刺す。五鈷杵を抜き取ると、放電している護符の上に新しい護符が重なり、放電がおさまった。


――これで大丈夫だ――


 次々と護符を取り出しては、五鈷杵に突き刺し、それを放電する護符に突き刺した。

 すべての護符の放電がおさまり、真一は座り込んだ。


――よかった。もう大丈夫だろう――


 一発の銃声が鳴った。真一が張った護符が吹きとんだ。

 振り返るとボビーを撃った男が真一に銃を向けている。

 真一は頭を抱えて、台座の陰に隠れた。

 何発もの銃弾が飛んできては、台座を削る。真一は体を丸くし、震えていた。涙がとめどなく出てくる。喉が荒れたような渇きで痛い。


――もう嫌だ! どうして、こんな目に……――


 真一は、まるで子供のように泣いた。泣きながら、五枚の護符を織り出し、床に並べた。  

 鼻をすすりながら、床に並べた護符に印を切った。

 風も無いのに護符が揺れ始め、わずかに浮き上がる。護符はまるで生き物のような動きを始めると煙とともに変化した。

 その姿は黒ずんだ肌に、異様に盛りあがった筋肉。腹は餓鬼のように膨らみ、波を打ったような剛毛は頭から背中まで伸びている。上下に長く伸びた歯牙は噛み合わず、鼻は出来物のように大きかった。眼は殺気に満ち大きく見開いている。身の丈は手のひらサイズだった。

 おもちゃ代わりにと祖父から教えてもらった式神『小使鬼』だった。真一は陰陽の術といえば、これしか知らない。


「助けて!」


 真一は泣きながら、『小使鬼』に頼んだ。

五匹の『小使鬼』達は真一の顔をしばらく見た後、円陣を組むと何やら相談し、並んで走り去った。

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